11月の例会=報告

11月例会
令和元年11月16日(土)

青年民権家山添武治と5人の子供たち
新潟県立文書館嘱託員  横山 真一氏

〈講演要旨〉
 明治期に自由民権運動と新聞事業に取り組んだ山添武治とその家族の“ファミリーヒストリー”をたどることによって、明治・大正・昭和の新潟県の歴史を考えてみたい。

1 山添武治―自由民権と新聞事業-
 山添武治は、万延元(1860)年西蒲原郡金巻村に生まれ、明治13~20年代にかけて自由民権運動に参加。15年2月には東京から県下に檄文を発送し、「自由制度の確立、人民の権利定着、自治の元気培養、国の活発化、国家の安定、日本の五大陸への発展」を訴えたが、24年師と仰ぐ山際七司が死去すると、政治活動から退く。29年に庄内藩士黒崎与八郎の三女柱(ことじ)と結婚した。明治30年以降は、新聞経営に従事『新潟日報』『新潟中央新聞』『新潟毎日新聞』を発行し、新潟県の新聞事業発展に貢献した。

2 山添柱(ことじ)-キリスト教と子供の教育-
 明治29年に17歳で36歳の武治と結婚し、不在勝ちの武治にかわり家を守り、36年にキリスト教に入信し、心の支えとするとともに、西洋の学問に関心を高め、庄内藩武士の家庭の教育熱心な気風から、子供たちの向学心と自立心を育んだ。「自慢・高慢、馬鹿の内」が柱の口癖だった。

3 5人の子供たち-個性豊かで、バラエティーに富んだ人生-
 武治の5人の子供たちは、それぞれ個性に富んだ人生を送った。
 長男武(たけし)は、新潟中学校水泳部時代に近代泳法(クロールなど)取り入れ、東京帝大法科卒業後、イギリスの学者・政治家ブライスの『近代民主政治』を翻訳し、晩年は現東京青梅市の山荘で自給自足生活を送った。
 長女孝(こう)は、新潟高女時代には短歌を親しみ、大正12年に中村為治と結婚。為治は大学教授・石川島芝浦タービンなど職業を転々とした。昭和20年に乗鞍に疎開して、自給自足の生活を送った。
 二男直(なおし)は新潟中学時代に投石で左目を失明するも東京帝大経済学部へ進み、新人会入会社会主義思想に触れ、全日農の運動や小作争議を支援したり、新潟毎日新聞社の労働争議で抗議文を小柳社長に提出したり、しばしば警察に検挙された。昭和5年から東横電気鉄道会社に勤務した。
 三男三郎は新潟高等学校から新潟医科大学へ進学、昭和14年満蒙開拓科学研究所員として白系ロシア人のロマノフカ村を調査し2百枚以上の記録写真を残した。北京大学医学院教授時代に2回応召するも、21年に復員し三菱美唄労働科学研究所研究員として炭鉱夫の健康調査に携わった。また、医学生時代からのエスペラント語の知識で昭和6年に『エスペラントの誕生』を翻訳し、平成13年に92歳で『英語・エスペラント語医語辞典』を完成した。
 次女正(まさ)は、昭和3年に二葉幼稚園経営の斉藤家の養女となり、新潟高女から東京音楽学校甲種師範科へ進み優秀な成績で卒業後、石川県羽昨(はくい)高女へ赴任するも病で休職し、その後北海道滝川高女に赴任した。戦後は英語教師の資格を取得し、音楽と英語の教鞭を執った。勉強家でエスペラント語の習得にも励み、晩年までスキーを楽しみ、ヨーロッパやアメリカへ何度も旅行をした。山添家で一番活発で人生を楽しんだ。
 山添家では、武治と柱(ことじ)のしっかりした人生観により、貧しさを苦とせず、高い教養を身に付けてもそれに満足せず、社会に積極的に貢献することをめざした。5人は学問・スポーツ・思想・旅・言語など自由闊達に人生を謳歌した。その豊かな“ファミリーヒストリー”をたどることは、新潟県の近代家族史の一側面をたどることと言ってもいいだろう。