12月の例会=報告

12月例会
令和元年12月21日(土)

明治三年の危機・新潟通商司
国立歴史民俗博物館プロジェクト研究員 青柳正俊 氏

<講演要旨>
 「新潟通商司」については、ほとんど知られていない。『新潟開港百年史』や『新潟県史』の記述も正確とはいえない。これは資料の不足によるものである。確かに、日本側の資料は少ないが、これまで知られていなかったイギリス外交文書を丹念に見ることで通商司の問題を正しくとらえることができる。本日は、イギリス外交文書を中心に読み解くことにより、実際に新潟で何が起こっていたかについて話したい。
 明治2年12月に新潟通商司及び新潟商社が設置された。しかし、翌3年7月に新潟通商司は撤退するに及んだ。設置された期間はわずか七か月に過ぎない。この間の経緯をみていく。明治3年初め、新潟通商司及び新潟商社はこの地の商業秩序の改革に着手する。布告類を発し、「新たな商法」が始まった。これに対し、新潟港の動揺が顕在化する。地元商人らの嘆願にもかかわらず官員・商社が強圧的に施策を強行し、その結果、二度の商業活動の麻痺状態を含む少なくとも二か月以上の混乱が続くこととなった。
 この間、外国領事から新潟県への抗議も誘発された。ただ、この時点までは事態は新潟での動きにとどまっていた。だが4月に入ると東京へと波及する。外国領事からの抗議の報告を受けた中央政府は「書面へ下ケ札」をしたため、布告類を改めるべきことを明示した。並行して、中央政府とイギリスとの度重なる談判が行われた。
 談判後、イギリス領事は新潟での新たな商法が適宜に是正されたと認識した。しかし、新潟では通商司・商社が県布告を上書きする告知を掲げた(「商社門前の掲札」)。新潟ではなおも「新たな商法」が継続しているらしい、という報に接したイギリス公使パークスは外務省への事実確認に加えて書記官アダムズを急遽新潟に派遣した。こうして、不意打ちに近い談判が行われた。アダムズは3月の「触書・覚」の撤回を求め、県はこれに応じ「取消し布告」を発した。
 しかし、県では中央政府からの適切な指示がないなかでアダムズからの叱責に晒されたことへの強い不満があった。アダムズの追及に対して弁解したが、政府は一切取り合わなかった。結果として新潟通商司は撤退を余儀なくされ、事態の幕引きが行われた。三条西県知事が更迭され、本野大参事の問責が行われた。ここで、本野大参事はどこまで知っていたのかが問題となる。パークスは本野の非を追及したが、本野はこれを否定し、明治政府は本野擁護に徹した。結局、本野問責は未決着に終わった。
 いまだ解明すべき課題は多いが、交易活動の活発化が期待された開港2年目の矢先を襲った通商司政策は、以降の新潟港低迷を決定づける要因の一つではなかったか。