4月例会
平成26年4月19日
「碑(いしぶみ、モニュメント)に見る人間模様」
元新潟県立文書館副館長 本井晴信氏
〈講演要旨〉
外を歩くと見慣れた建物や風景にも新しい発見があり、一つ一つの石碑にもそれぞれのドラマがある。私が目にした石碑のいくつかを紹介したい。そして外歩きの楽しみの手助けにしていただければありがたい。
「色部長門君追念碑」は昭和7年新潟市中央区関屋下川原町に建てられた石碑である。篆額・上杉憲関屋の地で死亡した米沢藩家老色部長門を追念して建てられた石碑である。碑文の多くは原則として漢文であるが、この碑文は当時の現代文で記されており画期的な意味を持った石碑と考えられる。また徳富・落合の二人による撰文・書の石碑を建てるということは大変なことで、おそらく斎藤巳三郎の力、人脈によるところが大きかったと思われる。同時に関係した多くの人々の努力もあったであろう。
現在の新潟県立図書館脇にある「良寛書一二三、いろは碑」と「会津八一古希記念歌碑」も貴重である。とくに良寛書の碑は単純明快でわかりやすく親しまれている。原本の文字が拡大され彫られているが、また文字にはかすれた部分があるが、そのかすれた部分も含め良寛の書としてよく再現された碑になっている。会津八一の碑は昭和25年、新潟県立図書館が現在の日本銀行新潟支店のところにあった時の前庭に建てられた碑で、八一は図書館の庭に建てること、相馬御風の碑と向かい合うように建てること、この二つを注文したようで、それは今も守られている。八一と御風は早稲田大学に同時に入学し同時に卒業している。ともに英文学を学び古代ギリシア思想に触れたことが、その後の活動に影響を与えたのではなかろうか。
十日町市内の小学校にある「二宮金次郎像」は石像でふくよか、丸顔である。にこやかで笑顔の二宮像は珍しい。この小学校の佐山武雄校長時代の昭和18年に建てられたもので、その小学校の卒業生であろう田村米作が寄贈したものである。まるで仏様のような顔立ちの味わい深い二宮像である。
「壇一雄句碑」は平成8年新潟市秋葉区大安寺に建てられた碑で、碑の注釈には「亡友の泳ぎし跡か川広し 大安寺にて壇一雄」「ここには安吾が泳いだかもしれない阿賀野川の雄大な情景がうたわれています」と記されている。しかしこれは壇一雄の思い違いであって安吾がここで生まれ育ったわけではない。真実でないことがどんどん広がっていくことは大きな問題である。石に刻まれたものは紙に書かれたものよりも残る可能性は大きい。それ故正しい内容が次世代の人たちに伝わるよう十分注意していかなければならないであろう。

2014年6月12日 2:14 PM |
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2月例会
平成26年2月15日
「錦絵『新斥税関之図』にみえる新潟の町と湊」
新潟県立文書館文書調査員・本会会員 菅瀬亮司氏
〈講演要旨〉
「新斥税関之図」という錦絵を紹介し、そこに描かれている新潟の町と湊について説明したい。錦絵はある意味でデフォルメ化された絵で、「おかしいな」と思う部分もあるが、作者の価値観が表現されており、当時の歴史を知る上で重要な資料の一つといえる。
この錦絵は、新潟税関が中心であり、税関を際立たせる意図で描かれたものであろう。時代は明治2年12月、画家は勝川九斎、彫刻は平地楼、三国屋金四郎蔵版、画賛(詞書き)と「新潟より諸方江舟路の志ら遍」(西廻り航路)が記されている。
明治2年新潟港に最初の外国貿易船が入港し、同年18隻の入船があった。しかしその後はわずかな船しか入港せず、同15年新潟の外国領事館は引き払われてしまった。錦絵に描かれている税関は運上所ともよばれ、外国貿易による関税徴収業務を行った。脇には石庫(いしぐら)が描かれている。信濃川河口の両岸には燈明台(灯台)が、また周辺には洲崎番所(沖の口番所、船番所)、仲(すあい)番所、そして御役所(旧新潟奉行所)、町会所、さらに日和山、船見櫓も描かれ、当時の新潟の主要な施設を見ることができる。
錦絵の左側には新潟の町並みが描かれている。新潟の鎮守としての白山社、近代公園の先駆けとなった新潟遊園(白山遊園)、そして外国領事館もある。領事館には「新潟商会」と書かれた旗が見える。教師館については不明である。新潟には外国人居留地が設定されず、警備のため新潟町への唯一の陸路となる関屋村に関門が設置された。
税関周辺は明治初年運上所道(湊町通)ができ、上大川前通に繋がり人家が建ち始めた。青柳橋、湊稲荷神社(道楽稲荷社)、願掛け狛犬、毘沙門天王堂などがあり賑わいをみせていた。また日本海を舞台に活動していた廻船は、季節風の影響で毎年秋から春にかけて陸上に引き揚げられた。それは囲い船といわれているが、元文3(1738)年の新潟湊囲い船関係史料を見ると、遠国の大型船の割合が高く越後廻船の囲い船はみられない。一方、安政4(1857)年の関係史料には越後廻船の数が圧倒的に多く登場し、越後廻船の活動期は19世紀の頃と考えることができよう。
以上、錦絵を見ることにより当時の人々の営みの跡がわかり、それを継承していくことは重要なことである。そしてそれは身近な地域を再発見する一つの有効な方法であるように思われる。

2014年3月13日 6:48 PM |
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新春講演会
平成26年1月12日(日)
「舞楽の地方伝播について―弥彦神社『舞童』を中心に―」
新潟大学教授 荻 美津夫 氏
〈講演要旨〉
舞楽とは何か、それがどこでどのような形で伝えられていったのか、また新潟県内の弥彦神社や能生白山神社などでは民俗芸能として伝承されているが、その歴史について各種史料及び映像を見ながらたどってみたい。
舞楽とは音楽を奏でながら舞を舞う音楽舞踊である。アジアの音楽が基本であるが、奈良時代までに中国・朝鮮半島から日本に伝えられ、律令制のもとで雅楽寮がつくられ、その雅楽寮の中で楽人が養成され宮廷儀式の時などで演じられた。平安時代、国風文化の傾向が強くなる中で、日本的なものとして、また日本人の好みにあった音楽としてまとめられていったものと考えられる。
実際、舞楽は、元日節会・朝覲(ちょうきん)行幸・御斎会(みさいえ)・相撲節会(すまいのせちえ)など大内裏や院、公卿の邸宅等での儀式や饗宴で行われた。また畿内寺院の仏事等でも行われ、仏教と密接な関係があった。それは敦煌莫高窟(ばっこうくつ)をはじめ仏教遺跡において、さらに日本の各寺院の変相図や曼荼羅などに舞楽の様子が描かれていることからもうかがえる。
このような舞楽は平安時代以降、多度神宮寺(伊勢)や筑前観世音寺、杵築神社(出雲)や厳島神社(安芸)等々、地方の大寺社や神宮寺などに伝えられていった。新潟県の場合も、万里集九の『梅花無尽蔵』に能生白山神社の「舞童」が、天津神社(糸魚川市)の『一之宮天津社並神宮寺縁起』に「舞楽」が出てきており、史料上確認できる。ただ弥彦神社については「舞童」「舞楽」とともに「大神楽」「大々神楽」と出てきている。なぜ「大神楽」「大々神楽」と出てくるのか、従来から研究が深められている点であるが、17世紀のころまで国上寺(旧分水町)とのつながりが強く、弥彦神社・国上寺の仏神事として舞童が行われていた。
しかし、18世紀に入ると弥彦神社の中から仏教的なものを排除する動きが強くなっていった。いわゆる神祇宗の影響である。それはたとえば元禄年間の弥彦関連文書の中に「舞童ノ祭リ 三月十八日大神楽ト云」「三月十八日舞童之神楽」などと記され、「大神楽」「大々神楽」という名称が多く使われるようになっていった。そして文政年間の史料である『桜井古水鏡』などで、「大神楽」「大々神楽」という名称についてのまとめや理論化がさらにすすめられていったものと考えられる。

講演会終了後、恒例の新年祝賀会が行われました。当会名誉会長の新潟市長篠田昭氏からご多忙の中ご出席いただき、激励のご挨拶をいただきました。

2014年1月21日 12:31 PM |
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12月例会
平成25年12月21日
「謙信時代の新潟津と醍醐寺僧の付法活動」
本会会員 小川 敏偉 氏
〈講演要旨〉
新潟町が白山寄居島に移ってくる前、どこに所在していたのかという問題は近世新潟町の変遷につながる重要な問題である。その問題について新しい史料をもとに報告したい。
高野山清浄心院『越後過去名簿』は、いわゆる高野聖が越後各地を廻り回向の依頼をうけ、それを「過去帳」としてまとめた史料である。その中に永正17(1520)年「正春 新方 田中トノ」の記事があり、現在「新潟」の初出史料と考えられる。同時に「新潟宝亀院」「新潟不動院」の記事も見ることができる。
旧堀之内町弘誓寺の「不動明王座像」像底部には「越後国蒲原郡平嶋郷新潟津不動院之御本尊」と記されており、不動院の「権大僧都法印教印」が永禄9(1566)年にこの仏像(本尊)を造らせたことがわかる。しかしこの御本尊がいつ、なぜ弘誓寺に招来されたのかがよくわからない。
『永禄六年北国下リノ遣足帳』は、戦国時代醍醐寺の僧侶が付法活動を行うため各地を廻った時の史料である。永禄7年会津を通って新潟に来ている。蒲原・沼垂を経て乙宝(法)寺へ行き約1ヶ月程滞在している。乙宝寺では伝法灌頂(真言の奥義を授け師位を与える儀式)を行っていたのであろう。
新潟津の所在について、前嶋敏氏は西川にかかる平島橋北側一帯の地域と特定されたが、平島は湊として欠陥のある場所である。湊には小高い砂丘地形が不可欠で、『遣足帳』の渡りの舟賃や距離の記述などから関屋金鉢山周辺がその所在地と考えられる。そしてふもとには町があり、元亀年中(1570~73)には白山寄居島および古新潟へ移動したと考えられる。
乙宝寺は越後における中心寺院の一つであった。醍醐寺の「史料データベース」などから『遣足帳』永禄7年乙宝寺を訪ねた僧侶は、醍醐寺報恩院正嫡「深応」の可能性が高い。また乙宝寺執事(故)小川義昭氏の研究を参考に同寺の『血脈』を遡ってみると、乙宝寺の2回目中興「俊志」の時にこの『遣足帳』の僧侶の付法がなされたと思われる。同時に新潟不動院・宝亀院も付法を受けたと想定され、乙宝寺を田舎本寺とし、新潟不動院・宝亀院が末寺となり、三寺ともに醍醐寺報恩院末の関係になったと考えられる。

2014年1月16日 9:22 AM |
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11月例会
平成25年11月16日
「在新潟イギリス領事館と新潟町民・味方尚作」
本会会員・新潟県立歴史博物館副館長 青柳 正俊 氏
〈講演要旨〉
新潟は明治2年(1869)に開港されたが、開港当初外国船の入港はかなりあった。しかしその入港船は横浜や函館などすでに交易を終えた船で、単に交易港としての新潟港を「試用」してみたという船であった。その後も新潟港での交易は伸びることはなく、中国の飢饉による米の特需が明治12年にあっただけで、同18年最後の西洋人居留商人が新潟を去り、「開港場・新潟」は一つの区切りを迎えた。
この開港後の新潟の様子について、イギリス領事が本国に年次報告を送っていた。詳細は拙著『開港場・新潟からの報告―イギリス外交官が伝えたこと―』(平成23年・考古堂書店)を参照していただければありがたいが、例えばラウダーはイギリス公使パークスに、新潟は水路による行き来が容易で奥州・出羽の養蚕地域、越後の茶栽培地域、会津の銅山の積出し地となっており、日本の主要な交易地の一つになるであろうなどと報告している。その他注目すべき報告が多数あるが、同5年エンスリーの離任に伴い新潟イギリス領事館は閉鎖されてしまった。
その後同9年に再度領事館は開設されることとなった。そしてこの時も書記官として採用されたのが味方尚作である。彼は吉田松陰や寺門静軒などとも交流のあった学者であり教育者であった。明治2年から領事館書記としてつとめ、トゥループとともに米沢や加賀・越中などへも出張している。またトゥループが北海道へ転勤を命じられ家族の荷物を輸送する際輸送船が難破し、その荷物の再輸送まで担当している。
トゥループの後、新潟イギリス領事館にはエンスリーそしてウーリーと二人が着任したが、明治12年同領事館は閉鎖されることとなった。この明治9年から12年までの後半の領事館の所在地は「寄居大畑通壱番地第千拾六番地、小田平十郎屋家」「寄居西大畑通一丁目千十六番地」などと史料に記されているが、現在のどこになるのであろうか。
新潟でのイギリス領事らが味方尚作に求めていたものは、英語の能力や西洋的なセンスなどではなく、むしろ優れた人文的教養、豊かな世間知、地元での厚い人脈などを併せ持った、彼の新潟町民としての確固たる存在感であったと考えられる。

2013年11月29日 1:52 PM |
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第27回越後と会津を語る会会津若松大会
第27回越後と会津を語る会会津若松大会が10月1日(火)会津若松市會津風雅堂で開催され、会員38名が参加した。
当日は観光バス1台に乗車し、8時40分新潟駅南口を出発、車中で毛島宏氏から戊辰戦争における「長命寺の戦い」、伊藤善允会長から「新島八重」について詳細な解説があった。10時50分会津若松城の北東に位置する長命寺に到着、住職から戊辰戦争及び戦争後の状況・様子についてお話をお聞きした後境内を見学、11時40分レストラン五十嵐で昼食をとり、12時30分過ぎ会場の會津風雅堂に到着した。大会は13時から開始され次のような内容であった。
〈開会式〉
開会のことば 会津若松大会実行副委員長 成田勝義
実行委員長挨拶 会津若松大会実行委員長 森田慶一
歓迎のことば 会津若松市長 室井照平
〈講演〉
上杉景勝の都市づくりと神指城
日本考古学協会会員 近藤真佐夫
(休憩)アトラクション・ふくしま八重隊パフォーマンス
〈研究発表〉
間瀬大工と会津の人々
〈越後〉 郷土史研究家 中村義隆
越後・南山両御蔵入領の会津藩支配
〈会津〉 会津史学会副会長 芳賀幸雄
〈閉会式〉
次期開催地代表挨拶 新発田大会実行委員会会長 佐藤泰彦
閉会のことば 会津若松大会実行副委員長 芳賀幸雄
大会は16時20分に終了、一同はバスに乗車し帰路「柏屋」で休憩、お土産等を購入し、18時40分新潟駅南口に到着、解散した。午前は長命寺を見学、午後は大会に参加し、「勉強の一日」「充実した一日」であった。
なお、次回は平成26年9月27日新発田市で開催の予定である。

新潟郷土史研究会顧問中村義隆氏の研究発表

ふくしま八重隊パフォーマンス

長命寺・会津藩士戦死者の墓(墓碑には「戦死墓」の3文字の表示以外許されなかった。)
2013年10月24日 8:32 PM |
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9月例会
平成25年9月15日
「明治14年『高知新聞』に載せられた新潟のすがたと人々」
本会会員 石橋 正夫 氏
〈講演要旨〉
明治初年から14~5年頃まで、明治新政府は軍隊や税制の確立、殖産興業を目標とし近代国家建設の施策をすすめていった。しかしそれが旧士族などの反発をまねき不安定な時代でもあった。とくに明治14年は自由民権運動が大きな高まりを見せた年であった。
新潟出身で自由民権運動家の一人山際七司は、板垣退助・中島信行に新潟への遊説を請い、板垣・中島等は明治14年9月25日東京を出発した。高崎・長野・高田・長岡を経て10月11日、一行は新潟に到着した。この板垣・中島等の遊説に同行し、その見聞を「東北載筆録」として『高知新聞』に掲載したのが坂崎斌(さかん)である。11日から14日までの新潟滞在の記事を読むと、当時の新潟の様子や坂崎がどのように新潟を見ていたのかがよくわかり大変興味深い。
長岡から新潟へは川汽船安全丸で信濃川を下り、同年夏の大水害に言及し、与板・三条・小須戸を過ぎて新潟市街に近づくと、県庁・裁判所・税関・各学校等の赤い屋根瓦や白い壁に注目している。一行は並木町荒川太二の家に滞在し、坂崎は前年から新潟英語学校の教師をしている弟の直道を訪ね、日和山に行ったり、旭町の招魂社で戊辰戦争戦死者の土佐藩士を弔い、白山公園にも足を運んでいる。
13日は行形亭で懇親会が催され、鈴木長蔵・荒川太二・斎藤喜十郎・鍵冨三作・八木朋直・白勢彦次郎など新潟の有力者が出席している。ちょうどこの日は東京にいる山際七司から、北海道開拓使払い下げの取り消しと明治23年国会開設の詔についての電報が届いた日でもあった。また坂崎は新潟の芸妓の姿を描写し「7~8割が京風、2~3割が関東風」などともを記している。一行は10月14日新潟を発ち、水原・会津若松・仙台・白河を経由し11月6日東京に帰着している。
坂崎は高知の『土陽新聞』に「汗血千里の駒」を連載し、坂本龍馬を世に出した人物でもある。高知は自由民権運動発祥の地として有名であるが、当時の新聞は勉学の一教材としても使用されていた。そして『高知新聞』を見るとイギリスの国内事情について触れている記事があり、高度な内容の記事が掲載されていることなど注目すべき点が多くあるように思われる。

2013年9月29日 9:06 AM |
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8月例会
平成25年8月18日
「長谷川雪旦と歩く『北國一覧寫・越後路の旅』」
本会会員 齋藤倫示 氏
〈講演要旨〉
長谷川雪旦の『北国一覧写』を見ながら、雪旦が歩いた越後路をたどってみたい。
今回紹介する『北国一覧写』は新潟県立図書館所蔵・米山堂出版復刻版であるが、米山堂出版復刻版は北海道大学附属図書館等々にも所蔵されている。国立国会図書館所蔵本・デジタル資料には、『北国一覧写三 越後・信濃』『同四 信濃・上野・武蔵』があり、『同四』の最後に雪旦の旅程と紀行文が記載されている。
その旅程を見ると、江戸の千住から奥州街道を通り北上・仙台・瀬木までが『北国一覧写一』、赤湯温泉から新潟までが『同二 出羽・越後』、新潟から弥彦を通り野尻・長野までが『同三 越後・信濃』、上田から上野・武蔵、そして江戸への帰着までが『同四 信濃・上野・武蔵』と想定され、『北国一覧写』はこの4冊で構成されていたことが考えられる。
新潟県立図書館所蔵・米山堂出版復刻版は『同二 出羽・越後』に相当するもので、天保2(1831)年8月赤湯温泉―なぜか「赤十温泉」と記されているが―に一泊した雪旦は、小国を経由し下関、乙村の乙宝寺、築地を通り松ヶ崎を過ぎて、「元町ヨリ廿九日夕七ツ時(4時頃)」新潟に到着している。新潟で4泊し、現在の東堀、本町、大川前通りであろう新潟町の家並み、会津屋の様子、海老屋久助楼上の図、亀田鵬斎が記したと思われる「環珠亭」の扁額、そしてイナダやスズキの煮付、タイ・コンニャク・ネギの料理、ヒツナマス、アンカケトヲフ等々、当時の新潟町の生活や風俗、文化を詳細に描写している。
この新潟町については、三浦迂斎の『東海濟勝記』、清河八郎の『西遊草』、イザベラ・バードの『日本奥地紀行』からも知ることができるが、新潟の人間では気がつかない事柄を旅人の視点で描いており興味深い点が多い。
『北国一覧写』をはじめ、各図書館に所蔵されている「旅行記」など、とくにデジタル資料を利用しながら、同時に多くの方々と情報交換をしながら、今後も古い時代の文化や歴史、生活等々を探求していきたいと考えている。

2013年8月31日 10:46 AM |
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7月例会
平成25年7月21日
「地名は旅をする」
本会会員・(財)北方文化博物館理事 神田勝郎氏
〈講演要旨〉
昨年5月『横越の地名を歩く―岐阜県から山形県まで―』という1冊の本を出版することができた。その後新たに発見された資料もあり、今回それらも含め横越について、映像を見ながら紹介していきたい。
横越という地名は、岐阜・福井・富山・新潟・山形の各県にあり、合計9か所確認できる。この横越の地名すべてを訪ね見ることができたが、いずれも川があり橋があり、川の流れと集落の位置関係などから横越という地名がつけられたのではなかろうか。新潟市の横越には横雲橋があるが、新潟県令楠本正隆の命名で、大河阿賀野川に雲がかかっているような大きな橋という意味であろう。
また、横越という地名は、文禄5(1596)年直江兼続覚、永禄7(1564)年醍醐寺僧侶の費用帳、1530年代の高野山清浄心院越後過去名簿の記事中にも登場し、中世史料からも横越集落の成立を知ることができる。
横越沢海の日枝神社境内に秋山好古書の忠魂碑がある。秋山の資料が400点余愛媛県松山市に残されているとのことで、今年の3月松山を訪問した。秋山が高田13師団長になる半年前、宮中午餐会に招待された時の招待状を確認することができた。松山出身で横越に関係する人物として洲之内徹がいる。彼の著書『気まぐれ美術館』の冒頭に横雲橋が登場している。また、大河津分水路補修工事を成功させ、地域の人々を救った宮本武之輔も松山出身の一人である。
横越が生んだ碩学として、民俗学の小林存と社会学の建部遯吾をあげることができる。小林は会津八一や相馬御風など多くの人々と交流し和歌や著書を残している。建部も良寛堂発案者の佐藤耐雪や相馬御風との交流があった。横越の五ノ堀用水近くに小林存生家と建部家旧宅が並んで建っている。
横越沢海の北方文化博物館とアメリカのカリフォルニア州サラトガ市箱根財団(箱根庭園)が、平成23年に姉妹庭園の関係を結んだ。横越が国境を越えて世界各地とつながっている。
人は旅をする。地名もまた旅をする。地名を訪ねながら旅の楽しさをより一層感じてもらえればありがたい。


2013年8月4日 8:40 PM |
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5月例会
平成25年5月19日
「フィルムを題材にした写真展の意味~小林新一の仕事から~」
新潟市歴史博物館学芸員 木村一貫氏
〈講演要旨〉
今回の当館「報じられなかった写真展」は小林新一の写真とともにフィルムを展示してみよう、そのフィルムも見てほしいということに力点をおいた。それはフィルムそのものを展示することにより、報道写真家としての小林の動きをとらえることができるのではないのか、という考えからである。
たとえば「アサヒグラフ」に掲載された松之山町の地すべりを取材した写真について、そのコマの前後を調べてみると、写っている男性のポーズが一定であることがわかる。おそらくより迫力のあるところを撮るためのある種の演出があったのではなかろうか。また、北朝鮮帰還船を取材したフィルムを見ると、見送りに来た一人の女子をずっと追いかけながら撮っていたことがわかる。この女子がバスを降りた時から、おそらく小林は「泣くだろう」と予測しながら勘を働かせながら撮っていたのであろう。
新潟地震後、バスの中で子供が遊んでいる写真は子供の表情が非常によく、苦しんでいる家族とは思われない私たちに力を与えてくれる写真になっている。フィルムを見ると「アサヒグラフ」の編集者が選んだ一枚であり、小林は違う写真を選んでいた。写真家が何らかの意図をもって撮影する、その中から何枚かを選ぶ、さらに編集者が選ぶ、そして選ばれた一枚の写真が存在する。写真が選ばれていく過程もフィルム全体を見ることによって知ることができるのではなかろうか。
フィルムは作品でなく、収蔵することはほとんど行われていない。リスクも大きい。しかし、当館では小林の4,000本以上になるであろうフィルムを、7か月間かけてスキャンニングした。今後の保存状態がどのようになるのか不明の部分もあるが、フィルムも含めた丸ごとの小林の写真を十分に見ていただければありがたい。
講演終了後、木村氏の解説により写真展を観賞した。


2013年5月26日 9:39 PM |
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