第27回越後と会津を語る会会津若松大会=報告

第27回越後と会津を語る会会津若松大会

 第27回越後と会津を語る会会津若松大会が10月1日(火)会津若松市會津風雅堂で開催され、会員38名が参加した。
 当日は観光バス1台に乗車し、8時40分新潟駅南口を出発、車中で毛島宏氏から戊辰戦争における「長命寺の戦い」、伊藤善允会長から「新島八重」について詳細な解説があった。10時50分会津若松城の北東に位置する長命寺に到着、住職から戊辰戦争及び戦争後の状況・様子についてお話をお聞きした後境内を見学、11時40分レストラン五十嵐で昼食をとり、12時30分過ぎ会場の會津風雅堂に到着した。大会は13時から開始され次のような内容であった。

〈開会式〉
  開会のことば    会津若松大会実行副委員長 成田勝義
  実行委員長挨拶   会津若松大会実行委員長  森田慶一
  歓迎のことば    会津若松市長       室井照平
〈講演〉
  上杉景勝の都市づくりと神指城
            日本考古学協会会員   近藤真佐夫
(休憩)アトラクション・ふくしま八重隊パフォーマンス
〈研究発表〉
  間瀬大工と会津の人々
           〈越後〉 郷土史研究家   中村義隆
  越後・南山両御蔵入領の会津藩支配
           〈会津〉 会津史学会副会長 芳賀幸雄
〈閉会式〉
  次期開催地代表挨拶 新発田大会実行委員会会長 佐藤泰彦
  閉会のことば    会津若松大会実行副委員長 芳賀幸雄

 大会は16時20分に終了、一同はバスに乗車し帰路「柏屋」で休憩、お土産等を購入し、18時40分新潟駅南口に到着、解散した。午前は長命寺を見学、午後は大会に参加し、「勉強の一日」「充実した一日」であった。
なお、次回は平成26年9月27日新発田市で開催の予定である。

新潟郷土史研究会顧問中村義隆氏の研究発表

ふくしま八重隊パフォーマンス

長命寺・会津藩士戦死者の墓(墓碑には「戦死墓」の3文字の表示以外許されなかった。)

9月の例会=報告

9月例会
平成25年9月15日

「明治14年『高知新聞』に載せられた新潟のすがたと人々」
本会会員 石橋 正夫 氏

〈講演要旨〉
明治初年から14~5年頃まで、明治新政府は軍隊や税制の確立、殖産興業を目標とし近代国家建設の施策をすすめていった。しかしそれが旧士族などの反発をまねき不安定な時代でもあった。とくに明治14年は自由民権運動が大きな高まりを見せた年であった。
新潟出身で自由民権運動家の一人山際七司は、板垣退助・中島信行に新潟への遊説を請い、板垣・中島等は明治14年9月25日東京を出発した。高崎・長野・高田・長岡を経て10月11日、一行は新潟に到着した。この板垣・中島等の遊説に同行し、その見聞を「東北載筆録」として『高知新聞』に掲載したのが坂崎斌(さかん)である。11日から14日までの新潟滞在の記事を読むと、当時の新潟の様子や坂崎がどのように新潟を見ていたのかがよくわかり大変興味深い。
長岡から新潟へは川汽船安全丸で信濃川を下り、同年夏の大水害に言及し、与板・三条・小須戸を過ぎて新潟市街に近づくと、県庁・裁判所・税関・各学校等の赤い屋根瓦や白い壁に注目している。一行は並木町荒川太二の家に滞在し、坂崎は前年から新潟英語学校の教師をしている弟の直道を訪ね、日和山に行ったり、旭町の招魂社で戊辰戦争戦死者の土佐藩士を弔い、白山公園にも足を運んでいる。
13日は行形亭で懇親会が催され、鈴木長蔵・荒川太二・斎藤喜十郎・鍵冨三作・八木朋直・白勢彦次郎など新潟の有力者が出席している。ちょうどこの日は東京にいる山際七司から、北海道開拓使払い下げの取り消しと明治23年国会開設の詔についての電報が届いた日でもあった。また坂崎は新潟の芸妓の姿を描写し「7~8割が京風、2~3割が関東風」などともを記している。一行は10月14日新潟を発ち、水原・会津若松・仙台・白河を経由し11月6日東京に帰着している。
坂崎は高知の『土陽新聞』に「汗血千里の駒」を連載し、坂本龍馬を世に出した人物でもある。高知は自由民権運動発祥の地として有名であるが、当時の新聞は勉学の一教材としても使用されていた。そして『高知新聞』を見るとイギリスの国内事情について触れている記事があり、高度な内容の記事が掲載されていることなど注目すべき点が多くあるように思われる。

8月の例会=報告

8月例会
平成25年8月18日

「長谷川雪旦と歩く『北國一覧寫・越後路の旅』」
本会会員 齋藤倫示 氏

〈講演要旨〉
 長谷川雪旦の『北国一覧写』を見ながら、雪旦が歩いた越後路をたどってみたい。
 今回紹介する『北国一覧写』は新潟県立図書館所蔵・米山堂出版復刻版であるが、米山堂出版復刻版は北海道大学附属図書館等々にも所蔵されている。国立国会図書館所蔵本・デジタル資料には、『北国一覧写三 越後・信濃』『同四 信濃・上野・武蔵』があり、『同四』の最後に雪旦の旅程と紀行文が記載されている。
 その旅程を見ると、江戸の千住から奥州街道を通り北上・仙台・瀬木までが『北国一覧写一』、赤湯温泉から新潟までが『同二 出羽・越後』、新潟から弥彦を通り野尻・長野までが『同三 越後・信濃』、上田から上野・武蔵、そして江戸への帰着までが『同四 信濃・上野・武蔵』と想定され、『北国一覧写』はこの4冊で構成されていたことが考えられる。
 新潟県立図書館所蔵・米山堂出版復刻版は『同二 出羽・越後』に相当するもので、天保2(1831)年8月赤湯温泉―なぜか「赤十温泉」と記されているが―に一泊した雪旦は、小国を経由し下関、乙村の乙宝寺、築地を通り松ヶ崎を過ぎて、「元町ヨリ廿九日夕七ツ時(4時頃)」新潟に到着している。新潟で4泊し、現在の東堀、本町、大川前通りであろう新潟町の家並み、会津屋の様子、海老屋久助楼上の図、亀田鵬斎が記したと思われる「環珠亭」の扁額、そしてイナダやスズキの煮付、タイ・コンニャク・ネギの料理、ヒツナマス、アンカケトヲフ等々、当時の新潟町の生活や風俗、文化を詳細に描写している。
 この新潟町については、三浦迂斎の『東海濟勝記』、清河八郎の『西遊草』、イザベラ・バードの『日本奥地紀行』からも知ることができるが、新潟の人間では気がつかない事柄を旅人の視点で描いており興味深い点が多い。
『北国一覧写』をはじめ、各図書館に所蔵されている「旅行記」など、とくにデジタル資料を利用しながら、同時に多くの方々と情報交換をしながら、今後も古い時代の文化や歴史、生活等々を探求していきたいと考えている。

7月の例会=報告

7月例会
平成25年7月21日

「地名は旅をする」
本会会員・(財)北方文化博物館理事 神田勝郎氏

〈講演要旨〉
 昨年5月『横越の地名を歩く―岐阜県から山形県まで―』という1冊の本を出版することができた。その後新たに発見された資料もあり、今回それらも含め横越について、映像を見ながら紹介していきたい。
 横越という地名は、岐阜・福井・富山・新潟・山形の各県にあり、合計9か所確認できる。この横越の地名すべてを訪ね見ることができたが、いずれも川があり橋があり、川の流れと集落の位置関係などから横越という地名がつけられたのではなかろうか。新潟市の横越には横雲橋があるが、新潟県令楠本正隆の命名で、大河阿賀野川に雲がかかっているような大きな橋という意味であろう。
 また、横越という地名は、文禄5(1596)年直江兼続覚、永禄7(1564)年醍醐寺僧侶の費用帳、1530年代の高野山清浄心院越後過去名簿の記事中にも登場し、中世史料からも横越集落の成立を知ることができる。
 横越沢海の日枝神社境内に秋山好古書の忠魂碑がある。秋山の資料が400点余愛媛県松山市に残されているとのことで、今年の3月松山を訪問した。秋山が高田13師団長になる半年前、宮中午餐会に招待された時の招待状を確認することができた。松山出身で横越に関係する人物として洲之内徹がいる。彼の著書『気まぐれ美術館』の冒頭に横雲橋が登場している。また、大河津分水路補修工事を成功させ、地域の人々を救った宮本武之輔も松山出身の一人である。
 横越が生んだ碩学として、民俗学の小林存と社会学の建部遯吾をあげることができる。小林は会津八一や相馬御風など多くの人々と交流し和歌や著書を残している。建部も良寛堂発案者の佐藤耐雪や相馬御風との交流があった。横越の五ノ堀用水近くに小林存生家と建部家旧宅が並んで建っている。
 横越沢海の北方文化博物館とアメリカのカリフォルニア州サラトガ市箱根財団(箱根庭園)が、平成23年に姉妹庭園の関係を結んだ。横越が国境を越えて世界各地とつながっている。
 人は旅をする。地名もまた旅をする。地名を訪ねながら旅の楽しさをより一層感じてもらえればありがたい。



5月の月例会=報告

5月例会
平成25年5月19日

「フィルムを題材にした写真展の意味~小林新一の仕事から~」
新潟市歴史博物館学芸員 木村一貫氏

〈講演要旨〉
 今回の当館「報じられなかった写真展」は小林新一の写真とともにフィルムを展示してみよう、そのフィルムも見てほしいということに力点をおいた。それはフィルムそのものを展示することにより、報道写真家としての小林の動きをとらえることができるのではないのか、という考えからである。
 たとえば「アサヒグラフ」に掲載された松之山町の地すべりを取材した写真について、そのコマの前後を調べてみると、写っている男性のポーズが一定であることがわかる。おそらくより迫力のあるところを撮るためのある種の演出があったのではなかろうか。また、北朝鮮帰還船を取材したフィルムを見ると、見送りに来た一人の女子をずっと追いかけながら撮っていたことがわかる。この女子がバスを降りた時から、おそらく小林は「泣くだろう」と予測しながら勘を働かせながら撮っていたのであろう。
 新潟地震後、バスの中で子供が遊んでいる写真は子供の表情が非常によく、苦しんでいる家族とは思われない私たちに力を与えてくれる写真になっている。フィルムを見ると「アサヒグラフ」の編集者が選んだ一枚であり、小林は違う写真を選んでいた。写真家が何らかの意図をもって撮影する、その中から何枚かを選ぶ、さらに編集者が選ぶ、そして選ばれた一枚の写真が存在する。写真が選ばれていく過程もフィルム全体を見ることによって知ることができるのではなかろうか。
 フィルムは作品でなく、収蔵することはほとんど行われていない。リスクも大きい。しかし、当館では小林の4,000本以上になるであろうフィルムを、7か月間かけてスキャンニングした。今後の保存状態がどのようになるのか不明の部分もあるが、フィルムも含めた丸ごとの小林の写真を十分に見ていただければありがたい。

 講演終了後、木村氏の解説により写真展を観賞した。


平成25年度総会=報告

平成25年度総会
平成25年4月20日

菅瀬亮司理事を議長に選出し、議事が進められました。
平成24年度事業報告・収支決算報告および平成25年度事業計画案・収支予算案を審議し、承認されました。
役員改選では、伊藤善允現会長が引き続き会長に選出されました。

平成25年度役員は以下のとおりです。
名誉会長:篠田 昭[新潟市長]
名誉会員 :蒲原 宏[元がんセンター新潟病院副院長]
顧問:中村 義隆[前会長]
相談役:和田 右苗[前副会長]・小熊 英雄[前副会長]・唐津 正夫[元監事] ・小川 千代[前監事]
  
会長:伊藤 善允
副会長:菅瀬 亮司
事務局長:高橋 邦比古
監事:齋藤 義明・笹川 玲子
理事:青木 道・伊藤 雅一・岡村 澄子・毛島 宏・桜井 ミツ・佐藤 千重子・関本 昌隆・山上 卓夫・横木 剛

4月の月例会=報告

4月例会
平成25年4月20日

「新潟奉行所役人の職務と生活」
本会会員・新潟奉行川村修就研究家 中野三義氏

〈講演概要〉
 講師の中野三義氏は、旧新潟郷土資料館勤務時に初代新潟奉行川村修就の御子孫から「川村家文書」が新潟市に寄贈される経緯に大きく関わり、その実現に尽力された。従前から川村修就に関して多方面にわたる論考を発表されてきている。
内容は、組頭・広間役・定役・並役の職階による勤務時間や職務の内容、各掛組織と職務内容、新潟奉行所の年中行事のあらまし、奉行所役人の生活と哀歓であった。
 長岡藩から上知された新潟町に設置された新潟奉行所の機能や歴史的な役割といった内容はあちこちの叙述にもみられるが、奉行所役人の生活の実相という視点での叙述や講演はなかなかない。それが小説ではなく、史料によって裏付けられた内容であるとさらにない。
 今回の講演は「川村文書」の翻刻に従事され、文書の内容を熟知されている氏でなくてはできない内容であった。年中行事に関する資料は、「川村文書」以外にもあり比較的に新潟町との関係など復元はできるが、奉行所役人の職務と生活に関して作成された略年表は苦心の資料である。資料中に川村奉行が部下の統率に悩まされたり、憤慨したり、人間川村修就の一面が伺われ興味深い。
 また奉行所役人の定数と処遇(給金)などの資料は、奉行の年収が1億円を超えると推定されたり、現在の価値への試算を示すなどわかりやすく構成されている。
 さらに奉行所役人の前職と転出先の資料では、その奉行所役人は経済官僚と軍事技術者を主として構成されており、それが幕府が期待した奉行所の機能であると説明された。
 最後に奉行所役人には病気隠居で退任した者が多く、職務の困難性などにも言及された。今日においても、人事は巡り合わせによっては人生の哀歓にもつながる。幕末期における人事の巡り合わせなどが、人生の哀歓を示しているとの締めくくりがあった。
 本講演は、歴史研究で難しいものの一つである生活の実相に迫ることにある。いずれも「川村文書」という貴重な史料を駆使した奉行所役人の生活探求であった。

3月の月例会=報告

3月例会
平成25年3月17日

「碑(いしぶみ)が伝える郷土の歴史」
前県立文書館副館長 本井晴信氏

〈講演要旨〉
碑(いしぶみ)が郷土史とどのように結びつくのであろうか。見てすぐわかる碑、わかりにくく説明が必要な碑……。碑にもいろいろあるが、自分なりに調べたり、あるいはその背景を知ったりしていく中で、さらに楽しみも増してくるのではなかろうか。今回は身近な碑を見ながら話を進めていきたい。(以下、多数の写真が提示され、その一つ一つについて詳細かつ楽しい説明があった)
○ 昭和大橋欄干端の縄文土器(火焔型土器)
○ 白山神社・竹内式部碑
○ 白山神社・楠本正隆像
○ 白山神社・タマ公像
○ 白山神社参道・備前焼の狛犬
○ 白山神社古町側赤い鳥居脇の「県社白山神社」社号碑
○ 西堀通二番町駐車場前の新潟女子工芸学校「西堀校舎跡地」記念碑
○ 白山小学校前・二宮金次郎像
○ 白山神社・一の鳥居
○ 白山神社・ラジオ塔
○ 白山神社・昭忠碑、神の武天皇像
○ 古町通一番町神明社・芭蕉句碑
○ 古町通一番町神明社・行田魁庵碑
○ 古町通の良寛像
(この他にも多くの写真が提示された)
 郷土史に関係する資料は古文書だけではない。碑に古文書並みの価値を、そして文化財としての価値を与えてほしい。現在の県庁舎や、今オープンしようとしているメディアシップなども、歴史的に見れば記念碑の一つかもしれない。
 今までの資料にたよりすぎず、より多くの方々から碑について自分なりに調べていってほしいと願っている。

2月の月例会=報告

2月例会
平成25年2月17日

古文書講座「天保期の新潟町を読む」 2
県立文書館文書調査員 菅瀬亮司氏

〈講演要旨〉
昨年の2月例会に引き続き「町方明細帳」を読みながら、天保期の新潟町について触れてみたい。この史料は天保14(1843)年新潟町が長岡領から幕府領に上知される際、その引継文書として作成されたもので、当時の新潟町の様子が具体的にわかる貴重な史料である。
 まず町会所の年中行事についてであるが、正月元日町役人一同奉行所へ年頭挨拶、3日・5日の両日検断・年寄が町中を年始に廻り、肝煎は各自担当組の町内を廻っている。8日が町会所の御用始、町役人一同裏附上下で出勤、諸職年行司(同業組合の総代)が申し付けられた。22日から定例の式日、式日とは検断・町老以下が町会所に出勤する日のことで、2・6・9の日であった。式日以外は交替で検断1人町老1~2人が町会所に詰め町政を執って月番制であった。
 6月12日より18日迄鎮守白山宮の祭礼、7月7日湊祭で住吉神楽が6日に白山宮より御旅所洲崎町へ引き移り、7日町中を廻る。昼は屋台・笠鉾等、夜は額燈籠等が町中と湊口辺まで廻った。
 12月10日が町会所の御用納めであった。
 次に橋についてである。新潟町は橋が多くあったが合計で76、その内訳は藩営の橋19、新潟町町営の橋31、寺院管理の橋23、町内持ちの橋3で、それぞれ橋に関する費用の負担者が決まっていた。
 人びとの移動についての記述もある。他所へ奉公に行く時は、3か年あるいは5か年の根限(ねぎり、ねかぎり)を願い出た。根限とは居住地(宗門帳の記載地)に迷惑をかける場合があってはならないので宗門帳からはずしてもらうことである。戻ってきたらまた記帳してもらうが、当時宗門帳は戸籍簿であった。欠落者が出た場合は五人組・親戚が捜す。30日期限を最大6度繰り返して捜し、それでも見つからない場合は永さがしとなった。転住の時は身元保証やキリシタンでないことを証明する所請証文を移転元の庄屋から移転先の庄屋へ提出してもらい、さらに寺院から宗旨離檀証文を移転先の庄屋へ送付してもらった。
 旅籠屋は古町通弐之町と三之町で営業していた。逗留人の調査、取調も行い、逗留人が浄瑠璃や軍談等寄席興行を願い出た時は5日あるいは7日に限り認め、長逗留は認めないことになっていた。
 以上見てきたことは明細帳のごく一部分でその他の多くの事項については触れることができなかった。後日この史料をじっくりと読んでいただきたいと願っている。なお、前年と今回の史料を併せると全容が判明する。

新春講演会=報告

新春講演会
平成25年1月13日

「新潟の古写真を読む」
新潟市歴史博物館副館長 伊東祐之氏

〈講演要旨〉
『新潟市史』やみなとぴあ(新潟市歴史博物館)の企画展で用いた古写真は貴重な資料であり、また、好評であった。古写真一枚一枚に意味があり多くの情報を伝えてくれる。
 昭和4年栄小学校の弥彦遠足の写真を見ると、児童は着物で下駄履きであるがいずれも新調したもののようで、当時の学校遠足は「晴れの日」の一大行事であったことがわかる。また、明治41年の大火の前の写真と後の写真とを比べてみると、家並みの状況など、街の変化を具に知ることができる。
 明治期の新潟には、高木・金井・和田・朝倉等々多くの写真家・写真館が存在し、今も八木朋直旧蔵写真、谷安平(笹川勇吉)旧蔵写真など多数の古写真が残されている。写真はいつ、どこで、だれが、何を意図して撮ったものか推理する必要がある。そして様々な視点から推理することによって新に見えてくるものがある。
 今日はすでによく知られている写真を見ながら、写されている物や事柄、景観などを語ってみたい。(以下、次のような古写真を見ながら詳細な説明があった)
 新潟県庁・県庁前の西堀・西堀鍛冶小路付近・道路整備中の古町通新川付近・道路整備の済んだ本町通坂内小路付近・古町通新津屋小路付近・新潟病院・白山神社付近・参道・ひょうたん池・公園入口・宮浦堀・他門川相生橋付近・他門川新津屋小路堀口付近等々
 身近な写真を読むことも大切なことである。例えば私の家にあるアルバムの写真から、昭和35年前後の子供達の様子や新潟地震の時の情景を知ることができる。そして資料は写真だけではない。何を食べ、何をいくらで買ったのか等々、その日その日の日記や家計簿、チラシ、あるいは思い出や聞き取りなど、自分のまわりにある歴史を一人一人が書き留めていくことが重要である。
 「内野の今昔」や「郷土赤塚」には写真解説の詳述があり魅力的な内容になっている。坂井輪や関屋などの公民館活動でも地元の写真を取り入れた充実した本を出版している。新潟郷土史研究会の「郷土新潟」も専門研究者だけではなく、在野の研究や調査を楽しんでいる人々の発表の場としてあった。
 自分の歴史を語ること、自分の語りを人々の前に出していくことが大切である。みなとぴあはそのような活動を支援し、そうした活動を基盤にこれからも事業を展開していきたいと考えている。


講演会終了後、恒例の新年祝賀会が行われました。当会名誉会長の新潟市長篠田昭氏からご多忙の中ご出席いただき、激励のご挨拶をいただきました。