月例会

9月の例会=報告

9月例会

平成26年9月21日(日)

「古地図が誘う越後の中世」
新潟県立文書館副館長 中川浩宣 氏

〈講演要旨〉
11世紀後半の越後の様子を描いた絵図として「康平図・寛治図」―いわゆる「越後古図」が有名である。この二つの絵図の特徴は、①新潟平野が海として描かれている、②佐渡に向かって幻の半島が描かれている、③複数の小島が描かれている、の三点であろう。
「越後古図」の評価をめぐっては様々な議論がなされている。その中で、近年、正確なものではないが地理的環境を読み取るある素材として使えるのではないのか、ハザードマップとしてとらえると「なるほど」と思える部分が存在しているのではないのか、海として描かれている越後平野は水没してしまう土地であるという意識で描かれているのではないのか、等々の意見が提示されている。
私は以前、横田切れ「水害図」の中の水に浸かった部分を見た時「越後古図」を思い出し、「水害図」と「越後古図」とがだぶって見えた。そして「越後古図」はハザードマップと同一ではないのか、評価に値する部分があるのではないのかと考えるに至った。
中世の越後全体を描いた絵図はなく、当時の状況を確認することはできないが、中世の越後平野は「水の平野」であったと考えられる。また気候変動の面から見ても「越後古図」が描かれたといわれている11世紀は暖かい気候のピークで、海進がすすんだ頃ではなかっただろうか。平野のかなりの部分まで水が入っていてもおかしくなかったのかもしれない。そのためであろうか、越後平野を根拠地にした中世の有力武士層はほとんど登場していない。頸城(くびき)と揚(あが)北(きた)には有力武将が多いのに比べ越後平野には有力武将は育たなかったように思われる。
越後平野は治水・排水事業の進展等により「水の平野」から「米の平野」へと変化していった。しかしその変化の過程でも洪水は頻繁に発生していたと想像される。中世においても、史料がなく不明な点は多いが洪水は繰り返し発生していたであろう。このような環境の中で、「越後古図」は越後平野のハザードマップとして、また「生産の土地」ではあるが水没してしまう地域であるということを想像させる絵図として描かれた可能性があるのではなかろうか。同時にこれだけの水害の土地を切り開いてきたということを後世の人々に示すため描かれたのかもしれない。
越後平野の一つの「履歴書」として「越後古図」をこれからも見ていきたい。

7月の例会=報告

7月例会
平成26年7月20日(日)

「居留外国人による新潟での居住をめぐる諸問題」
新潟県立歴史博物館副館長・本会会員 青柳正俊 氏

〈講演要旨〉
新潟が明治初年開港五港の一つとして期待されながらもなぜ発展しなかったのか、その理由について従来次の三つにまとめられている。
 1 港が悪かった。
 2 商品の集積がなく後背地に乏しかった。
 3 貿易を発展させる地元の消極性
この中の一つ目は妥当性があるかとは思われるが、二番目、三番目は違うのではなかろうか。私は新潟が貿易港として発展しなかった背景には、開港五港のうち新潟のみ外国人居留地がなかったこと、そのため外国商人が安定的な貿易を行うことができなかったことが大きな意味を持っていたのではないかと考えている。
新潟の居留地についての問題を端的に指摘しているのはイギリス公使パークスである。彼が明治15年6月「新潟でも他の開港場と同様に外国人使用のための一区の居留地を設けるべきである」、同16年3月「新潟での交易の停滞は港施設の不備だけが原因ではない。外国人が堅固な建築物を建てられない現状がそうした停滞に少なからぬ影響を与えている」と発言している点が注目される。
実際、開港最初期の新潟における外国人借地借家の状況を調べてみると、「新町通の一角(本町通七番町464~5番地)」と「一番山の三筆(字浜浦5232~4番地)」の二か所の土地についての貸借が確認できる。そして「一番山の三筆」の契約書(約定書)の更新条件についての和英文言を比較検討してみると、その文章には齟齬が生じていることがわかる。その後も長く維持されたこれらの借地は、こうした最初期のずさんな契約ゆえに生じた例外的な事例だったのである。
私は今「明治政府は新潟の外国人をいかに住まわせたか」を詳細な年表として試作中である。その年表から、新潟に外国人が居留し始めると当初は居留取極の原則に近いかたちで運用されたものの、やがては借地借家の一件ごとの審査が始まり、新潟の外国人と地方行政(県)、あるいは外国公使と中央政府との間で、時には大きな摩擦が生じていることを見ることができる。
摩擦を生じながらも明治18年土地貸借規則案がとりまとめられたが、結局この規則案が施行されることはなかった。そして新潟において、外国人に対して永代借地権が与えられず、しかも外国人による借地借家が日本政府による一件ごとの審査を経なければならなかったため、外国人が土地家屋を安定的に確保することが事実上不可能であった。――このことが新潟の外国貿易不振の背景にあったと考えられよう。

日本政府(外務卿寺島宗則)とイギリス公使パークスとの土地貸借規則について、興味深いやりとりを講演の中で青柳氏は詳細に報告された。青柳氏からその「やりとり」の一部をまとめていただいたので紹介する。以下は青柳氏の文章である。(編集部)

明治10年9月、日本政府は外国人との土地貸借規則について、政府案をまとめてパークスとの交渉に臨んだ。大きな節目であったと思う。この時点で双方が了解する規則が成立していれば、外国商人は安定的に商業活動ができ、新潟港を通じた外国貿易はもっと盛んになったかもしれない。しかしながら協議は不調に終わった。

ハリー・パークス(駐日イギリス公使)
「土地貸借の期限を25年以内と定めたのはどういったお考えからか。」
寺島宗則(外務卿)
「政府が公益のため土地を収用する時、有償で買い上げる土地上の家屋を築25年までと定めたからである。あるいは、外国人が土地購入代金を日本人に預けて、日本人名義で土地を購入するような事態を防ぐためである。」
パークス
「新潟の外国人居留取極では「外国人が新潟で自由に居住するのを妨げない」と規定されている。この取極に反するではないか。25年という期限を設けられては、誰一人として新潟に家屋を設けようと思わない。貴国政府は、新潟では外国人に家を建てさせたくないのか。再考願いたい。」
寺島
「何年経っても家がある限りそれを買い上げよ、というのでは政府にとって迷惑である。居留取極では「ただし借地する際には県庁の許可を得ること」としており、その許可要件を定めるまでのことである。」
パークス
「年限を定める必要はない。外国人居留取極を定めた際には、新潟の土地を25年しか借りることができない、などという話しはなかった。」
寺島
「その時は、土地はすべて政府のものであったが、今は人民のものである。状況が違っている。外国人へは土地を無期限で貸すわけにはいかない。」
パークス
「それはなぜか。」
寺島
「外国人は我が国の法律に従わないからである。それに、当方としても外国人が25年以上居住してはならない、と言っているのではない。地主が了解すれば借地の更新は可能である。」
パークス
「いったん年限を定めてしまえば、その後は貸してもらえないかもしれない。あるいは地主が借地料を吊り上げて、その結果、借主の外国人はやむを得ず家を安価で売り渡さざるをえないかもしれない。」
寺島
「それは当事者同士で話し合えばよい。とにかく、年限がなければ永遠に貸すことになってしまう。」
パークス
「では100年にせよ。どうしても年限を定めるというなら100年にせよ。イギリスではよくある借地年限だ。」

5月の例会=報告

5月例会
平成26年5月17日(土)

「デジタル化と郷土史」
新潟郷土史研究会会員 齋藤倫示 氏

〈講演要旨〉
デジタル機器を使って郷土史をどのように調べていったらいいのか、どのような使われ方があるのか、幾つかの事例を示しながら話を進めていきたい。
ある旧家で『新潟湊之真景』絵図1枚が見つかった。やや虫食いの部分があったがデジタル化し、虫食いの部分を修復することができた。私が「郷土新潟」54号で発表した『双六で辿る北国街道』は、史料をデジタル化することにより汚れた部分を取り除いて掲載することができた。さらに『越後春日山旧図』や白山神社所蔵『大船絵馬』もデジタル化し、拡大することにより詳細な部分まで読み取ることができるようになった。
商人定宿のとや伝右衛門『引き札』には越後国内の宿駅や名所旧跡、全国各地の地名が数多く記載されているが、地名の読み方がわからない場合など、当該地の資料館に問い合わせ、すぐに回答をもらうことが可能である。また、『東講商人鑑』は全国各地の図書館や大学図書館に所蔵されデジタル化されている例が多いが、早稲田大学附属図書館所蔵の『東講商人鑑』には「明治十三年八月六日午後……新潟開以来大火 五千五百四十四戸」」の書き込みがあった。この書き込みからおそらく『東講商人鑑』のもとの所蔵者は新潟の町民であり、明治十三年の新潟大火後に早稲田大学の蔵書になったのであろう。
長谷川雪旦『北国一覧写』の中に「元町」が記載されているが、この「元町」が今のどこになるのか、デジタル化された古地図や『東講商人鑑』の記事などを検討することによりはっきりさせることができた。さらに新潟県立図書館所蔵・郷土コレクションデジタル資料『近世新潟町屋並図』と川村修就文書『新潟町中地子石高間数家並人別帳』とを見比べながら「片原三之町西方 間口七間三尺 井上屋庄三郎」の屋敷地も知ることができた。
このようにデジタル化により情報の収集や修正、検索、研究、新事実の発見、遠隔地との交流など多くの恩恵を受けることが可能である。それ故新潟市をはじめとした行政、公共機関の積極的なデジタル化の推進を強く願っている。

4月の例会=報告

4月例会
平成26年4月19日

「碑(いしぶみ、モニュメント)に見る人間模様」
元新潟県立文書館副館長 本井晴信氏

〈講演要旨〉
外を歩くと見慣れた建物や風景にも新しい発見があり、一つ一つの石碑にもそれぞれのドラマがある。私が目にした石碑のいくつかを紹介したい。そして外歩きの楽しみの手助けにしていただければありがたい。
「色部長門君追念碑」は昭和7年新潟市中央区関屋下川原町に建てられた石碑である。篆額・上杉憲関屋の地で死亡した米沢藩家老色部長門を追念して建てられた石碑である。碑文の多くは原則として漢文であるが、この碑文は当時の現代文で記されており画期的な意味を持った石碑と考えられる。また徳富・落合の二人による撰文・書の石碑を建てるということは大変なことで、おそらく斎藤巳三郎の力、人脈によるところが大きかったと思われる。同時に関係した多くの人々の努力もあったであろう。
現在の新潟県立図書館脇にある「良寛書一二三、いろは碑」と「会津八一古希記念歌碑」も貴重である。とくに良寛書の碑は単純明快でわかりやすく親しまれている。原本の文字が拡大され彫られているが、また文字にはかすれた部分があるが、そのかすれた部分も含め良寛の書としてよく再現された碑になっている。会津八一の碑は昭和25年、新潟県立図書館が現在の日本銀行新潟支店のところにあった時の前庭に建てられた碑で、八一は図書館の庭に建てること、相馬御風の碑と向かい合うように建てること、この二つを注文したようで、それは今も守られている。八一と御風は早稲田大学に同時に入学し同時に卒業している。ともに英文学を学び古代ギリシア思想に触れたことが、その後の活動に影響を与えたのではなかろうか。
十日町市内の小学校にある「二宮金次郎像」は石像でふくよか、丸顔である。にこやかで笑顔の二宮像は珍しい。この小学校の佐山武雄校長時代の昭和18年に建てられたもので、その小学校の卒業生であろう田村米作が寄贈したものである。まるで仏様のような顔立ちの味わい深い二宮像である。
「壇一雄句碑」は平成8年新潟市秋葉区大安寺に建てられた碑で、碑の注釈には「亡友の泳ぎし跡か川広し 大安寺にて壇一雄」「ここには安吾が泳いだかもしれない阿賀野川の雄大な情景がうたわれています」と記されている。しかしこれは壇一雄の思い違いであって安吾がここで生まれ育ったわけではない。真実でないことがどんどん広がっていくことは大きな問題である。石に刻まれたものは紙に書かれたものよりも残る可能性は大きい。それ故正しい内容が次世代の人たちに伝わるよう十分注意していかなければならないであろう。

2月の例会=報告

2月例会
平成26年2月15日

「錦絵『新斥税関之図』にみえる新潟の町と湊」
新潟県立文書館文書調査員・本会会員 菅瀬亮司氏

〈講演要旨〉
「新斥税関之図」という錦絵を紹介し、そこに描かれている新潟の町と湊について説明したい。錦絵はある意味でデフォルメ化された絵で、「おかしいな」と思う部分もあるが、作者の価値観が表現されており、当時の歴史を知る上で重要な資料の一つといえる。
この錦絵は、新潟税関が中心であり、税関を際立たせる意図で描かれたものであろう。時代は明治2年12月、画家は勝川九斎、彫刻は平地楼、三国屋金四郎蔵版、画賛(詞書き)と「新潟より諸方江舟路の志ら遍」(西廻り航路)が記されている。
明治2年新潟港に最初の外国貿易船が入港し、同年18隻の入船があった。しかしその後はわずかな船しか入港せず、同15年新潟の外国領事館は引き払われてしまった。錦絵に描かれている税関は運上所ともよばれ、外国貿易による関税徴収業務を行った。脇には石庫(いしぐら)が描かれている。信濃川河口の両岸には燈明台(灯台)が、また周辺には洲崎番所(沖の口番所、船番所)、仲(すあい)番所、そして御役所(旧新潟奉行所)、町会所、さらに日和山、船見櫓も描かれ、当時の新潟の主要な施設を見ることができる。
錦絵の左側には新潟の町並みが描かれている。新潟の鎮守としての白山社、近代公園の先駆けとなった新潟遊園(白山遊園)、そして外国領事館もある。領事館には「新潟商会」と書かれた旗が見える。教師館については不明である。新潟には外国人居留地が設定されず、警備のため新潟町への唯一の陸路となる関屋村に関門が設置された。
税関周辺は明治初年運上所道(湊町通)ができ、上大川前通に繋がり人家が建ち始めた。青柳橋、湊稲荷神社(道楽稲荷社)、願掛け狛犬、毘沙門天王堂などがあり賑わいをみせていた。また日本海を舞台に活動していた廻船は、季節風の影響で毎年秋から春にかけて陸上に引き揚げられた。それは囲い船といわれているが、元文3(1738)年の新潟湊囲い船関係史料を見ると、遠国の大型船の割合が高く越後廻船の囲い船はみられない。一方、安政4(1857)年の関係史料には越後廻船の数が圧倒的に多く登場し、越後廻船の活動期は19世紀の頃と考えることができよう。
以上、錦絵を見ることにより当時の人々の営みの跡がわかり、それを継承していくことは重要なことである。そしてそれは身近な地域を再発見する一つの有効な方法であるように思われる。

新春講演会=報告

新春講演会
平成26年1月12日(日)

「舞楽の地方伝播について―弥彦神社『舞童』を中心に―」
新潟大学教授 荻 美津夫 氏

〈講演要旨〉
舞楽とは何か、それがどこでどのような形で伝えられていったのか、また新潟県内の弥彦神社や能生白山神社などでは民俗芸能として伝承されているが、その歴史について各種史料及び映像を見ながらたどってみたい。
舞楽とは音楽を奏でながら舞を舞う音楽舞踊である。アジアの音楽が基本であるが、奈良時代までに中国・朝鮮半島から日本に伝えられ、律令制のもとで雅楽寮がつくられ、その雅楽寮の中で楽人が養成され宮廷儀式の時などで演じられた。平安時代、国風文化の傾向が強くなる中で、日本的なものとして、また日本人の好みにあった音楽としてまとめられていったものと考えられる。
実際、舞楽は、元日節会・朝覲(ちょうきん)行幸・御斎会(みさいえ)・相撲節会(すまいのせちえ)など大内裏や院、公卿の邸宅等での儀式や饗宴で行われた。また畿内寺院の仏事等でも行われ、仏教と密接な関係があった。それは敦煌莫高窟(ばっこうくつ)をはじめ仏教遺跡において、さらに日本の各寺院の変相図や曼荼羅などに舞楽の様子が描かれていることからもうかがえる。
このような舞楽は平安時代以降、多度神宮寺(伊勢)や筑前観世音寺、杵築神社(出雲)や厳島神社(安芸)等々、地方の大寺社や神宮寺などに伝えられていった。新潟県の場合も、万里集九の『梅花無尽蔵』に能生白山神社の「舞童」が、天津神社(糸魚川市)の『一之宮天津社並神宮寺縁起』に「舞楽」が出てきており、史料上確認できる。ただ弥彦神社については「舞童」「舞楽」とともに「大神楽」「大々神楽」と出てきている。なぜ「大神楽」「大々神楽」と出てくるのか、従来から研究が深められている点であるが、17世紀のころまで国上寺(旧分水町)とのつながりが強く、弥彦神社・国上寺の仏神事として舞童が行われていた。
しかし、18世紀に入ると弥彦神社の中から仏教的なものを排除する動きが強くなっていった。いわゆる神祇宗の影響である。それはたとえば元禄年間の弥彦関連文書の中に「舞童ノ祭リ 三月十八日大神楽ト云」「三月十八日舞童之神楽」などと記され、「大神楽」「大々神楽」という名称が多く使われるようになっていった。そして文政年間の史料である『桜井古水鏡』などで、「大神楽」「大々神楽」という名称についてのまとめや理論化がさらにすすめられていったものと考えられる。

講演会終了後、恒例の新年祝賀会が行われました。当会名誉会長の新潟市長篠田昭氏からご多忙の中ご出席いただき、激励のご挨拶をいただきました。

12月の例会=報告

12月例会
平成25年12月21日

「謙信時代の新潟津と醍醐寺僧の付法活動」
本会会員 小川 敏偉 氏

〈講演要旨〉
新潟町が白山寄居島に移ってくる前、どこに所在していたのかという問題は近世新潟町の変遷につながる重要な問題である。その問題について新しい史料をもとに報告したい。
高野山清浄心院『越後過去名簿』は、いわゆる高野聖が越後各地を廻り回向の依頼をうけ、それを「過去帳」としてまとめた史料である。その中に永正17(1520)年「正春 新方 田中トノ」の記事があり、現在「新潟」の初出史料と考えられる。同時に「新潟宝亀院」「新潟不動院」の記事も見ることができる。
旧堀之内町弘誓寺の「不動明王座像」像底部には「越後国蒲原郡平嶋郷新潟津不動院之御本尊」と記されており、不動院の「権大僧都法印教印」が永禄9(1566)年にこの仏像(本尊)を造らせたことがわかる。しかしこの御本尊がいつ、なぜ弘誓寺に招来されたのかがよくわからない。
『永禄六年北国下リノ遣足帳』は、戦国時代醍醐寺の僧侶が付法活動を行うため各地を廻った時の史料である。永禄7年会津を通って新潟に来ている。蒲原・沼垂を経て乙宝(法)寺へ行き約1ヶ月程滞在している。乙宝寺では伝法灌頂(真言の奥義を授け師位を与える儀式)を行っていたのであろう。
新潟津の所在について、前嶋敏氏は西川にかかる平島橋北側一帯の地域と特定されたが、平島は湊として欠陥のある場所である。湊には小高い砂丘地形が不可欠で、『遣足帳』の渡りの舟賃や距離の記述などから関屋金鉢山周辺がその所在地と考えられる。そしてふもとには町があり、元亀年中(1570~73)には白山寄居島および古新潟へ移動したと考えられる。
乙宝寺は越後における中心寺院の一つであった。醍醐寺の「史料データベース」などから『遣足帳』永禄7年乙宝寺を訪ねた僧侶は、醍醐寺報恩院正嫡「深応」の可能性が高い。また乙宝寺執事(故)小川義昭氏の研究を参考に同寺の『血脈』を遡ってみると、乙宝寺の2回目中興「俊志」の時にこの『遣足帳』の僧侶の付法がなされたと思われる。同時に新潟不動院・宝亀院も付法を受けたと想定され、乙宝寺を田舎本寺とし、新潟不動院・宝亀院が末寺となり、三寺ともに醍醐寺報恩院末の関係になったと考えられる。

11月の例会=報告

11月例会
平成25年11月16日

「在新潟イギリス領事館と新潟町民・味方尚作」
本会会員・新潟県立歴史博物館副館長 青柳 正俊 氏

〈講演要旨〉
新潟は明治2年(1869)に開港されたが、開港当初外国船の入港はかなりあった。しかしその入港船は横浜や函館などすでに交易を終えた船で、単に交易港としての新潟港を「試用」してみたという船であった。その後も新潟港での交易は伸びることはなく、中国の飢饉による米の特需が明治12年にあっただけで、同18年最後の西洋人居留商人が新潟を去り、「開港場・新潟」は一つの区切りを迎えた。
この開港後の新潟の様子について、イギリス領事が本国に年次報告を送っていた。詳細は拙著『開港場・新潟からの報告―イギリス外交官が伝えたこと―』(平成23年・考古堂書店)を参照していただければありがたいが、例えばラウダーはイギリス公使パークスに、新潟は水路による行き来が容易で奥州・出羽の養蚕地域、越後の茶栽培地域、会津の銅山の積出し地となっており、日本の主要な交易地の一つになるであろうなどと報告している。その他注目すべき報告が多数あるが、同5年エンスリーの離任に伴い新潟イギリス領事館は閉鎖されてしまった。
その後同9年に再度領事館は開設されることとなった。そしてこの時も書記官として採用されたのが味方尚作である。彼は吉田松陰や寺門静軒などとも交流のあった学者であり教育者であった。明治2年から領事館書記としてつとめ、トゥループとともに米沢や加賀・越中などへも出張している。またトゥループが北海道へ転勤を命じられ家族の荷物を輸送する際輸送船が難破し、その荷物の再輸送まで担当している。
トゥループの後、新潟イギリス領事館にはエンスリーそしてウーリーと二人が着任したが、明治12年同領事館は閉鎖されることとなった。この明治9年から12年までの後半の領事館の所在地は「寄居大畑通壱番地第千拾六番地、小田平十郎屋家」「寄居西大畑通一丁目千十六番地」などと史料に記されているが、現在のどこになるのであろうか。
新潟でのイギリス領事らが味方尚作に求めていたものは、英語の能力や西洋的なセンスなどではなく、むしろ優れた人文的教養、豊かな世間知、地元での厚い人脈などを併せ持った、彼の新潟町民としての確固たる存在感であったと考えられる。

9月の例会=報告

9月例会
平成25年9月15日

「明治14年『高知新聞』に載せられた新潟のすがたと人々」
本会会員 石橋 正夫 氏

〈講演要旨〉
明治初年から14~5年頃まで、明治新政府は軍隊や税制の確立、殖産興業を目標とし近代国家建設の施策をすすめていった。しかしそれが旧士族などの反発をまねき不安定な時代でもあった。とくに明治14年は自由民権運動が大きな高まりを見せた年であった。
新潟出身で自由民権運動家の一人山際七司は、板垣退助・中島信行に新潟への遊説を請い、板垣・中島等は明治14年9月25日東京を出発した。高崎・長野・高田・長岡を経て10月11日、一行は新潟に到着した。この板垣・中島等の遊説に同行し、その見聞を「東北載筆録」として『高知新聞』に掲載したのが坂崎斌(さかん)である。11日から14日までの新潟滞在の記事を読むと、当時の新潟の様子や坂崎がどのように新潟を見ていたのかがよくわかり大変興味深い。
長岡から新潟へは川汽船安全丸で信濃川を下り、同年夏の大水害に言及し、与板・三条・小須戸を過ぎて新潟市街に近づくと、県庁・裁判所・税関・各学校等の赤い屋根瓦や白い壁に注目している。一行は並木町荒川太二の家に滞在し、坂崎は前年から新潟英語学校の教師をしている弟の直道を訪ね、日和山に行ったり、旭町の招魂社で戊辰戦争戦死者の土佐藩士を弔い、白山公園にも足を運んでいる。
13日は行形亭で懇親会が催され、鈴木長蔵・荒川太二・斎藤喜十郎・鍵冨三作・八木朋直・白勢彦次郎など新潟の有力者が出席している。ちょうどこの日は東京にいる山際七司から、北海道開拓使払い下げの取り消しと明治23年国会開設の詔についての電報が届いた日でもあった。また坂崎は新潟の芸妓の姿を描写し「7~8割が京風、2~3割が関東風」などともを記している。一行は10月14日新潟を発ち、水原・会津若松・仙台・白河を経由し11月6日東京に帰着している。
坂崎は高知の『土陽新聞』に「汗血千里の駒」を連載し、坂本龍馬を世に出した人物でもある。高知は自由民権運動発祥の地として有名であるが、当時の新聞は勉学の一教材としても使用されていた。そして『高知新聞』を見るとイギリスの国内事情について触れている記事があり、高度な内容の記事が掲載されていることなど注目すべき点が多くあるように思われる。

8月の例会=報告

8月例会
平成25年8月18日

「長谷川雪旦と歩く『北國一覧寫・越後路の旅』」
本会会員 齋藤倫示 氏

〈講演要旨〉
 長谷川雪旦の『北国一覧写』を見ながら、雪旦が歩いた越後路をたどってみたい。
 今回紹介する『北国一覧写』は新潟県立図書館所蔵・米山堂出版復刻版であるが、米山堂出版復刻版は北海道大学附属図書館等々にも所蔵されている。国立国会図書館所蔵本・デジタル資料には、『北国一覧写三 越後・信濃』『同四 信濃・上野・武蔵』があり、『同四』の最後に雪旦の旅程と紀行文が記載されている。
 その旅程を見ると、江戸の千住から奥州街道を通り北上・仙台・瀬木までが『北国一覧写一』、赤湯温泉から新潟までが『同二 出羽・越後』、新潟から弥彦を通り野尻・長野までが『同三 越後・信濃』、上田から上野・武蔵、そして江戸への帰着までが『同四 信濃・上野・武蔵』と想定され、『北国一覧写』はこの4冊で構成されていたことが考えられる。
 新潟県立図書館所蔵・米山堂出版復刻版は『同二 出羽・越後』に相当するもので、天保2(1831)年8月赤湯温泉―なぜか「赤十温泉」と記されているが―に一泊した雪旦は、小国を経由し下関、乙村の乙宝寺、築地を通り松ヶ崎を過ぎて、「元町ヨリ廿九日夕七ツ時(4時頃)」新潟に到着している。新潟で4泊し、現在の東堀、本町、大川前通りであろう新潟町の家並み、会津屋の様子、海老屋久助楼上の図、亀田鵬斎が記したと思われる「環珠亭」の扁額、そしてイナダやスズキの煮付、タイ・コンニャク・ネギの料理、ヒツナマス、アンカケトヲフ等々、当時の新潟町の生活や風俗、文化を詳細に描写している。
 この新潟町については、三浦迂斎の『東海濟勝記』、清河八郎の『西遊草』、イザベラ・バードの『日本奥地紀行』からも知ることができるが、新潟の人間では気がつかない事柄を旅人の視点で描いており興味深い点が多い。
『北国一覧写』をはじめ、各図書館に所蔵されている「旅行記」など、とくにデジタル資料を利用しながら、同時に多くの方々と情報交換をしながら、今後も古い時代の文化や歴史、生活等々を探求していきたいと考えている。