2月の例会=報告

2月例会
平成27年2月8日(日)

新潟市・沼垂町合併100周年記念展「沼垂」を見る
新潟市歴史博物館学芸課長 小林隆幸氏

〈講演要旨〉
「お蔵の松」はかつて沼垂小学校に植えられていた松で、周辺地域の一つのシンボルであった。そこは古くは新発田藩のお蔵があった場所である。
この沼垂は「渟足柵」として「日本書紀」大化3(647)年条にはじめて記された地名である。旧和島村八幡林遺跡から発掘された木簡に「沼垂城」とあり、沼垂が実在したことは確実である。越後国の成立や国府の所在地などとの関連からも注目され、また近年発掘された木簡や牡丹山諏訪神社古墳の発見など、沼垂周辺地域一帯のさらなる解明が期待されている。
中世史史料にも沼垂が登場している。たとえば永正15(1516)年伊達家文書の中に「のたりのわたしもり」が出てきており、「義経記」や京都醍醐寺の僧侶による「北国下り遣足帳」にも登場している。そして上杉景勝と新発田重家との対立の際にも沼垂が重要な拠点となっていた。
江戸時代は新発田藩の中心的な港として発展していったが、四度の移転があった。信濃川・阿賀野川の流れによる侵食の影響が大きかったと考えられるが、信濃川を挟んだ新潟町との訴訟が繰り返された。港の権益問題、中洲帰属問題、廻船入港問題等々、訴訟はほとんど沼垂側の敗訴で終わったが、沼垂町と新潟町の対立はながく続いた。
近代に入り、明治19(1886)年、萬代橋が完成した。萬代橋により沼垂と新潟が結ばれ鉄道の敷設も計画された。同30年北越鉄道沼垂駅が開設されたが、その開業前には鉄道爆破事件などもあった。同31年山の下と合併、大正3(1914)年に沼垂町と新潟市の合併が実現し、その後も信濃川右岸一体にかけて商業施設や工場群が建設され、また近代的港湾としても整備され、さらに大きな発展をみせていった。
このながい沼垂の歴史について、今回の企画展を観覧し、より一層理解を深めていただければありがたい。
(沼垂に関係した古い写真を映像で観賞し、その後企画展の会場に移動して「沼垂展」を観覧した。)



新春講演会=報告

新春講演会・新年祝賀会
平成27年1月11日(日)
新潟会館において新春講演会並びに新年祝賀会が行われました。
新春講演会は、新潟大学教授橋本博文氏による「書き換えられた越後の古墳時代像―城の山古墳・牡丹山諏訪神社古墳の調査を通して―」と題する講演で、最新の発掘成果、研究成果が紹介され、あっという間の90分間でした。
100人を超える出席者があり、当初予定していた人数をオーバーし、急遽、机や椅子を補充する状況でした。牡丹山諏訪神社古墳をはじめとする越後の古墳時代、古代史について、興味関心を持っている人が多くいるのだと、あらためて感じました。
講演会終了後、恒例の新年祝賀会が行われました。当会名誉会長の篠田昭新潟市長の挨拶があり、乾杯の後、約2時間和気藹々、多くの人との交流を深めました。

〈講演要旨〉
越後において、古墳文化は従来上越を飛び越して下越の蒲原平野に到達したと考えられていた。しかし、妙高市観音平古墳群での前方後円墳の出現により、上越にまず古墳文化が到達したといえる。
また、胎内市城の山古墳の調査により、阿賀北地域での前方後円墳が確認され、下越にも古墳文化が早く波及していることが実証された。城の山古墳から漆製品、木棺、鏡、靫、勾玉、管玉等々が出土し、今後も調査・研究が積み重ねられていくことと思われる。
下越の前方後円墳として、西蒲区の菖蒲塚古墳が確認されているが、近くの南赤坂遺跡からは北方の続縄文土器が出土しており、北の集団と西の集団との交易が考えられる。宮城県栗原市入の沢遺跡においても、古墳文化を持っていた人々と続縄文文化を持っていた人々との交易、接触、戦いが想定され、今後注目される遺跡の一つとなっている。
古墳前期末から中期初頭に、新潟市秋葉区古津八幡山古墳が出現する。この古墳は越後最大の古墳であるが、円墳である。
今回調査された新潟市東区牡丹山諏訪神社古墳は、5世紀代の円墳ではないかと考えられる。出土した須恵器破片や円筒埴輪破片などから、近畿をはじめとした各地の勢力・技術とのかかわりが想定される。砂丘上に存在するこの古墳は、阿賀野川・信濃川の合流点であり、河川交通を掌握している有力者との関連が考えられる。近県各地の資料館には石棺の出土例やそれを復元した模型がいくつか展示・説明されている。牡丹山諏訪神社古墳にも石棺が入っていても「おかしくはないのでは」と思われる。そして、北関東や東北とのつながりについての研究も今後の課題であろう。
牡丹山諏訪神社古墳がつくられたあとは、今後の研究課題ではあるが、南魚沼市飯綱山古墳群の中期群集墳の台頭にみられるように、一つのクッションをおいて、南魚沼に政治的拠点が移っていったのではなかろうか。
牡丹山諏訪神社古墳をはじめ、今後も発掘・調査・研究を継続し深めていかなければならないと考えている。

橋本先生ご講演



講演会終了後、恒例の新年祝賀会が行われました。当会名誉会長の新潟市長篠田昭氏からご多忙の中ご出席いただき、激励のご挨拶をいただきました。

2015年 新年祝賀会



当会名誉会長 新潟市長 篠田昭氏

12月の例会=報告

12月例会
平成26年12月20日(土)

「横越神社の風景―熊野若宮社と神明宮の合殿―」
本会会員・(財)北方文化博物館理事 神田勝郎氏

〈講演要旨〉
私の地元にある横越神社は熊野若宮社と神明宮とが合殿された神社である。今年の1月『横越神社の風景』と題し1冊の本をまとめることができた。
熊野若宮社は若一王子(にゃくいちおうじ)と呼ばれ横越下郷宮原に、神明宮は横越上郷にそれぞれ古く勧請された神社である。明治7年に熊野若宮社が神明宮の社地に移転し合殿を果たしていたが、大正8年の「奉遷宮村社 熊野若宮社・神明宮合殿御移転」の棟札も存在していた。
幸いに大正8年の棟札を立証する「合殿御移動」の時の古写真が五十嵐家に大切に保管されていた。その写真から、木臼を2段に重ね舟板を敷いて神殿(合殿)を載せ、木の丸太で50メートル引きずりながら移動したことが判明した。翌大正9年には横越下郷宮原にあった大鳥居も神殿移動に併せて搬送・再建された。この移設の時の古写真も幸運にも発見することができた。
横越下郷宮原の熊野若宮社の奥には、古くから「ジガ屋敷」と呼ばれた場所があり、かつては榎の大木があった。その地点はあたかも前方後円墳を思わせるような地形になっていた。また周辺には諏訪神社、千手海庵、行者塚、宗賢寺などがあり、一大宗教ゾーンのような感じのするところでもある。同時に明治5年頃の「家並図」を見ると、横越組大庄屋の建部家と小林家が並んで所在しており、横越下郷は要衝の地であったことがうかがえる。
横越神社の拝殿には安政5(1858)年の俳句奉納額や横越出身で群馬県知事を4期務めた神田坤六揮毫の扁額、さらに建部遯吾博士揮毫の大幟を写真撮影したものも掲額されている。そして昭和9年には境内地を囲む玉垣が築造され、神社としての見事な景観が整った。
このたび旧横越小学校の門柱を活用し、小林存の歌を彫字して歌碑として建立することができた。
  ふるさとの堤乃茶屋の酒悲し
      長橋渡るバスに手を振る
小林存さんらしい字であり、自分のふるさとを偲ばせる歌である。そして180名の浄財によって横越神社の社地の一隅に建立されたこの歌碑は今、横越神社の新風景となっている。

11月の例会=報告

11月例会

平成26年11月15日(土)

「新潟湊に花ひらいた文化」
元新潟県立文書館副館長 小島正芳 氏

〈講演要旨〉
私は今までの良寛研究を通じて、出雲崎町の繁栄が良寛の活動を支えていた一つの要素であったと考えている。同様に越後の文化も越後の経済活動と密接に結びついていたと思われる。今日は経済的な活動を縦糸に、文化を横糸にして話をすすめていきたい。
二代目安藤広重の安政6(1859)年「越後新潟の景」がある。新潟の川や湊の美しさが出ているが、千石船や港の賑わいの様子なども描かれている。
元和2(1616)年堀直竒は新潟を湊として整備し、税を軽くする政策をとった。都市計画に対する先見の明があったといえる。その後、河村瑞賢によって西廻り航路が開かれ、新潟湊から多くの物資が大坂へ運ばれていった。なかでも蔵米が多く、それらは商人の手を経て各藩の収入源となった。「東講商人鑑」には廻船問屋の名前が記され、「越後土産初編」には各地の名物が記されている。
松尾芭蕉が新潟に来て泊まっている点も注目される。時代は元禄年間、新潟に俳諧の広がりがあり、新潟商人は商売のみならずさまざまな文化や教養を身につけていた。
新潟は絵画についてもすぐれた絵師を出している。その代表が五十嵐浚明である。江戸や京都で狩野派、土佐派を学び新潟に帰ってきたが、五十嵐元誠や五十嵐竹沙など一族もまた有能であった。そして片山北海、飴屋万蔵、岩田洲尾、玉木勝良、田辺忠蔵、白井華陽、石川侃斎、巻菱湖、館柳湾等々、多くの文人達が活躍した。
時代が明治となり、開港した新潟においても、従来からの商人に代わり新しい商人が台頭するところとなった。それに伴い、新潟の文芸も江戸時代からのものではなく違った路線をたどることとなった。明治期、新潟の商人の目は北海道へと向かった。畳表や藁などが北海道へ運ばれ、にしん、昆布などが新潟にもたらされた。
そして新潟の文芸も、太田木甫、日野資徳、山田花作など新しい担い手たちによって活躍の場が広げられていった。この3人に学んだ人物が会津八一である。会津八一の活躍は、いわば新潟の文化が東京で再び生かされるようになった、といえるのではなかろうか。

9月の例会=報告

9月例会

平成26年9月21日(日)

「古地図が誘う越後の中世」
新潟県立文書館副館長 中川浩宣 氏

〈講演要旨〉
11世紀後半の越後の様子を描いた絵図として「康平図・寛治図」―いわゆる「越後古図」が有名である。この二つの絵図の特徴は、①新潟平野が海として描かれている、②佐渡に向かって幻の半島が描かれている、③複数の小島が描かれている、の三点であろう。
「越後古図」の評価をめぐっては様々な議論がなされている。その中で、近年、正確なものではないが地理的環境を読み取るある素材として使えるのではないのか、ハザードマップとしてとらえると「なるほど」と思える部分が存在しているのではないのか、海として描かれている越後平野は水没してしまう土地であるという意識で描かれているのではないのか、等々の意見が提示されている。
私は以前、横田切れ「水害図」の中の水に浸かった部分を見た時「越後古図」を思い出し、「水害図」と「越後古図」とがだぶって見えた。そして「越後古図」はハザードマップと同一ではないのか、評価に値する部分があるのではないのかと考えるに至った。
中世の越後全体を描いた絵図はなく、当時の状況を確認することはできないが、中世の越後平野は「水の平野」であったと考えられる。また気候変動の面から見ても「越後古図」が描かれたといわれている11世紀は暖かい気候のピークで、海進がすすんだ頃ではなかっただろうか。平野のかなりの部分まで水が入っていてもおかしくなかったのかもしれない。そのためであろうか、越後平野を根拠地にした中世の有力武士層はほとんど登場していない。頸城(くびき)と揚(あが)北(きた)には有力武将が多いのに比べ越後平野には有力武将は育たなかったように思われる。
越後平野は治水・排水事業の進展等により「水の平野」から「米の平野」へと変化していった。しかしその変化の過程でも洪水は頻繁に発生していたと想像される。中世においても、史料がなく不明な点は多いが洪水は繰り返し発生していたであろう。このような環境の中で、「越後古図」は越後平野のハザードマップとして、また「生産の土地」ではあるが水没してしまう地域であるということを想像させる絵図として描かれた可能性があるのではなかろうか。同時にこれだけの水害の土地を切り開いてきたということを後世の人々に示すため描かれたのかもしれない。
越後平野の一つの「履歴書」として「越後古図」をこれからも見ていきたい。

7月の例会=報告

7月例会
平成26年7月20日(日)

「居留外国人による新潟での居住をめぐる諸問題」
新潟県立歴史博物館副館長・本会会員 青柳正俊 氏

〈講演要旨〉
新潟が明治初年開港五港の一つとして期待されながらもなぜ発展しなかったのか、その理由について従来次の三つにまとめられている。
 1 港が悪かった。
 2 商品の集積がなく後背地に乏しかった。
 3 貿易を発展させる地元の消極性
この中の一つ目は妥当性があるかとは思われるが、二番目、三番目は違うのではなかろうか。私は新潟が貿易港として発展しなかった背景には、開港五港のうち新潟のみ外国人居留地がなかったこと、そのため外国商人が安定的な貿易を行うことができなかったことが大きな意味を持っていたのではないかと考えている。
新潟の居留地についての問題を端的に指摘しているのはイギリス公使パークスである。彼が明治15年6月「新潟でも他の開港場と同様に外国人使用のための一区の居留地を設けるべきである」、同16年3月「新潟での交易の停滞は港施設の不備だけが原因ではない。外国人が堅固な建築物を建てられない現状がそうした停滞に少なからぬ影響を与えている」と発言している点が注目される。
実際、開港最初期の新潟における外国人借地借家の状況を調べてみると、「新町通の一角(本町通七番町464~5番地)」と「一番山の三筆(字浜浦5232~4番地)」の二か所の土地についての貸借が確認できる。そして「一番山の三筆」の契約書(約定書)の更新条件についての和英文言を比較検討してみると、その文章には齟齬が生じていることがわかる。その後も長く維持されたこれらの借地は、こうした最初期のずさんな契約ゆえに生じた例外的な事例だったのである。
私は今「明治政府は新潟の外国人をいかに住まわせたか」を詳細な年表として試作中である。その年表から、新潟に外国人が居留し始めると当初は居留取極の原則に近いかたちで運用されたものの、やがては借地借家の一件ごとの審査が始まり、新潟の外国人と地方行政(県)、あるいは外国公使と中央政府との間で、時には大きな摩擦が生じていることを見ることができる。
摩擦を生じながらも明治18年土地貸借規則案がとりまとめられたが、結局この規則案が施行されることはなかった。そして新潟において、外国人に対して永代借地権が与えられず、しかも外国人による借地借家が日本政府による一件ごとの審査を経なければならなかったため、外国人が土地家屋を安定的に確保することが事実上不可能であった。――このことが新潟の外国貿易不振の背景にあったと考えられよう。

日本政府(外務卿寺島宗則)とイギリス公使パークスとの土地貸借規則について、興味深いやりとりを講演の中で青柳氏は詳細に報告された。青柳氏からその「やりとり」の一部をまとめていただいたので紹介する。以下は青柳氏の文章である。(編集部)

明治10年9月、日本政府は外国人との土地貸借規則について、政府案をまとめてパークスとの交渉に臨んだ。大きな節目であったと思う。この時点で双方が了解する規則が成立していれば、外国商人は安定的に商業活動ができ、新潟港を通じた外国貿易はもっと盛んになったかもしれない。しかしながら協議は不調に終わった。

ハリー・パークス(駐日イギリス公使)
「土地貸借の期限を25年以内と定めたのはどういったお考えからか。」
寺島宗則(外務卿)
「政府が公益のため土地を収用する時、有償で買い上げる土地上の家屋を築25年までと定めたからである。あるいは、外国人が土地購入代金を日本人に預けて、日本人名義で土地を購入するような事態を防ぐためである。」
パークス
「新潟の外国人居留取極では「外国人が新潟で自由に居住するのを妨げない」と規定されている。この取極に反するではないか。25年という期限を設けられては、誰一人として新潟に家屋を設けようと思わない。貴国政府は、新潟では外国人に家を建てさせたくないのか。再考願いたい。」
寺島
「何年経っても家がある限りそれを買い上げよ、というのでは政府にとって迷惑である。居留取極では「ただし借地する際には県庁の許可を得ること」としており、その許可要件を定めるまでのことである。」
パークス
「年限を定める必要はない。外国人居留取極を定めた際には、新潟の土地を25年しか借りることができない、などという話しはなかった。」
寺島
「その時は、土地はすべて政府のものであったが、今は人民のものである。状況が違っている。外国人へは土地を無期限で貸すわけにはいかない。」
パークス
「それはなぜか。」
寺島
「外国人は我が国の法律に従わないからである。それに、当方としても外国人が25年以上居住してはならない、と言っているのではない。地主が了解すれば借地の更新は可能である。」
パークス
「いったん年限を定めてしまえば、その後は貸してもらえないかもしれない。あるいは地主が借地料を吊り上げて、その結果、借主の外国人はやむを得ず家を安価で売り渡さざるをえないかもしれない。」
寺島
「それは当事者同士で話し合えばよい。とにかく、年限がなければ永遠に貸すことになってしまう。」
パークス
「では100年にせよ。どうしても年限を定めるというなら100年にせよ。イギリスではよくある借地年限だ。」

5月の例会=報告

5月例会
平成26年5月17日(土)

「デジタル化と郷土史」
新潟郷土史研究会会員 齋藤倫示 氏

〈講演要旨〉
デジタル機器を使って郷土史をどのように調べていったらいいのか、どのような使われ方があるのか、幾つかの事例を示しながら話を進めていきたい。
ある旧家で『新潟湊之真景』絵図1枚が見つかった。やや虫食いの部分があったがデジタル化し、虫食いの部分を修復することができた。私が「郷土新潟」54号で発表した『双六で辿る北国街道』は、史料をデジタル化することにより汚れた部分を取り除いて掲載することができた。さらに『越後春日山旧図』や白山神社所蔵『大船絵馬』もデジタル化し、拡大することにより詳細な部分まで読み取ることができるようになった。
商人定宿のとや伝右衛門『引き札』には越後国内の宿駅や名所旧跡、全国各地の地名が数多く記載されているが、地名の読み方がわからない場合など、当該地の資料館に問い合わせ、すぐに回答をもらうことが可能である。また、『東講商人鑑』は全国各地の図書館や大学図書館に所蔵されデジタル化されている例が多いが、早稲田大学附属図書館所蔵の『東講商人鑑』には「明治十三年八月六日午後……新潟開以来大火 五千五百四十四戸」」の書き込みがあった。この書き込みからおそらく『東講商人鑑』のもとの所蔵者は新潟の町民であり、明治十三年の新潟大火後に早稲田大学の蔵書になったのであろう。
長谷川雪旦『北国一覧写』の中に「元町」が記載されているが、この「元町」が今のどこになるのか、デジタル化された古地図や『東講商人鑑』の記事などを検討することによりはっきりさせることができた。さらに新潟県立図書館所蔵・郷土コレクションデジタル資料『近世新潟町屋並図』と川村修就文書『新潟町中地子石高間数家並人別帳』とを見比べながら「片原三之町西方 間口七間三尺 井上屋庄三郎」の屋敷地も知ることができた。
このようにデジタル化により情報の収集や修正、検索、研究、新事実の発見、遠隔地との交流など多くの恩恵を受けることが可能である。それ故新潟市をはじめとした行政、公共機関の積極的なデジタル化の推進を強く願っている。

4月の例会=報告

4月例会
平成26年4月19日

「碑(いしぶみ、モニュメント)に見る人間模様」
元新潟県立文書館副館長 本井晴信氏

〈講演要旨〉
外を歩くと見慣れた建物や風景にも新しい発見があり、一つ一つの石碑にもそれぞれのドラマがある。私が目にした石碑のいくつかを紹介したい。そして外歩きの楽しみの手助けにしていただければありがたい。
「色部長門君追念碑」は昭和7年新潟市中央区関屋下川原町に建てられた石碑である。篆額・上杉憲関屋の地で死亡した米沢藩家老色部長門を追念して建てられた石碑である。碑文の多くは原則として漢文であるが、この碑文は当時の現代文で記されており画期的な意味を持った石碑と考えられる。また徳富・落合の二人による撰文・書の石碑を建てるということは大変なことで、おそらく斎藤巳三郎の力、人脈によるところが大きかったと思われる。同時に関係した多くの人々の努力もあったであろう。
現在の新潟県立図書館脇にある「良寛書一二三、いろは碑」と「会津八一古希記念歌碑」も貴重である。とくに良寛書の碑は単純明快でわかりやすく親しまれている。原本の文字が拡大され彫られているが、また文字にはかすれた部分があるが、そのかすれた部分も含め良寛の書としてよく再現された碑になっている。会津八一の碑は昭和25年、新潟県立図書館が現在の日本銀行新潟支店のところにあった時の前庭に建てられた碑で、八一は図書館の庭に建てること、相馬御風の碑と向かい合うように建てること、この二つを注文したようで、それは今も守られている。八一と御風は早稲田大学に同時に入学し同時に卒業している。ともに英文学を学び古代ギリシア思想に触れたことが、その後の活動に影響を与えたのではなかろうか。
十日町市内の小学校にある「二宮金次郎像」は石像でふくよか、丸顔である。にこやかで笑顔の二宮像は珍しい。この小学校の佐山武雄校長時代の昭和18年に建てられたもので、その小学校の卒業生であろう田村米作が寄贈したものである。まるで仏様のような顔立ちの味わい深い二宮像である。
「壇一雄句碑」は平成8年新潟市秋葉区大安寺に建てられた碑で、碑の注釈には「亡友の泳ぎし跡か川広し 大安寺にて壇一雄」「ここには安吾が泳いだかもしれない阿賀野川の雄大な情景がうたわれています」と記されている。しかしこれは壇一雄の思い違いであって安吾がここで生まれ育ったわけではない。真実でないことがどんどん広がっていくことは大きな問題である。石に刻まれたものは紙に書かれたものよりも残る可能性は大きい。それ故正しい内容が次世代の人たちに伝わるよう十分注意していかなければならないであろう。

2月の例会=報告

2月例会
平成26年2月15日

「錦絵『新斥税関之図』にみえる新潟の町と湊」
新潟県立文書館文書調査員・本会会員 菅瀬亮司氏

〈講演要旨〉
「新斥税関之図」という錦絵を紹介し、そこに描かれている新潟の町と湊について説明したい。錦絵はある意味でデフォルメ化された絵で、「おかしいな」と思う部分もあるが、作者の価値観が表現されており、当時の歴史を知る上で重要な資料の一つといえる。
この錦絵は、新潟税関が中心であり、税関を際立たせる意図で描かれたものであろう。時代は明治2年12月、画家は勝川九斎、彫刻は平地楼、三国屋金四郎蔵版、画賛(詞書き)と「新潟より諸方江舟路の志ら遍」(西廻り航路)が記されている。
明治2年新潟港に最初の外国貿易船が入港し、同年18隻の入船があった。しかしその後はわずかな船しか入港せず、同15年新潟の外国領事館は引き払われてしまった。錦絵に描かれている税関は運上所ともよばれ、外国貿易による関税徴収業務を行った。脇には石庫(いしぐら)が描かれている。信濃川河口の両岸には燈明台(灯台)が、また周辺には洲崎番所(沖の口番所、船番所)、仲(すあい)番所、そして御役所(旧新潟奉行所)、町会所、さらに日和山、船見櫓も描かれ、当時の新潟の主要な施設を見ることができる。
錦絵の左側には新潟の町並みが描かれている。新潟の鎮守としての白山社、近代公園の先駆けとなった新潟遊園(白山遊園)、そして外国領事館もある。領事館には「新潟商会」と書かれた旗が見える。教師館については不明である。新潟には外国人居留地が設定されず、警備のため新潟町への唯一の陸路となる関屋村に関門が設置された。
税関周辺は明治初年運上所道(湊町通)ができ、上大川前通に繋がり人家が建ち始めた。青柳橋、湊稲荷神社(道楽稲荷社)、願掛け狛犬、毘沙門天王堂などがあり賑わいをみせていた。また日本海を舞台に活動していた廻船は、季節風の影響で毎年秋から春にかけて陸上に引き揚げられた。それは囲い船といわれているが、元文3(1738)年の新潟湊囲い船関係史料を見ると、遠国の大型船の割合が高く越後廻船の囲い船はみられない。一方、安政4(1857)年の関係史料には越後廻船の数が圧倒的に多く登場し、越後廻船の活動期は19世紀の頃と考えることができよう。
以上、錦絵を見ることにより当時の人々の営みの跡がわかり、それを継承していくことは重要なことである。そしてそれは身近な地域を再発見する一つの有効な方法であるように思われる。

新春講演会=報告

新春講演会
平成26年1月12日(日)

「舞楽の地方伝播について―弥彦神社『舞童』を中心に―」
新潟大学教授 荻 美津夫 氏

〈講演要旨〉
舞楽とは何か、それがどこでどのような形で伝えられていったのか、また新潟県内の弥彦神社や能生白山神社などでは民俗芸能として伝承されているが、その歴史について各種史料及び映像を見ながらたどってみたい。
舞楽とは音楽を奏でながら舞を舞う音楽舞踊である。アジアの音楽が基本であるが、奈良時代までに中国・朝鮮半島から日本に伝えられ、律令制のもとで雅楽寮がつくられ、その雅楽寮の中で楽人が養成され宮廷儀式の時などで演じられた。平安時代、国風文化の傾向が強くなる中で、日本的なものとして、また日本人の好みにあった音楽としてまとめられていったものと考えられる。
実際、舞楽は、元日節会・朝覲(ちょうきん)行幸・御斎会(みさいえ)・相撲節会(すまいのせちえ)など大内裏や院、公卿の邸宅等での儀式や饗宴で行われた。また畿内寺院の仏事等でも行われ、仏教と密接な関係があった。それは敦煌莫高窟(ばっこうくつ)をはじめ仏教遺跡において、さらに日本の各寺院の変相図や曼荼羅などに舞楽の様子が描かれていることからもうかがえる。
このような舞楽は平安時代以降、多度神宮寺(伊勢)や筑前観世音寺、杵築神社(出雲)や厳島神社(安芸)等々、地方の大寺社や神宮寺などに伝えられていった。新潟県の場合も、万里集九の『梅花無尽蔵』に能生白山神社の「舞童」が、天津神社(糸魚川市)の『一之宮天津社並神宮寺縁起』に「舞楽」が出てきており、史料上確認できる。ただ弥彦神社については「舞童」「舞楽」とともに「大神楽」「大々神楽」と出てきている。なぜ「大神楽」「大々神楽」と出てくるのか、従来から研究が深められている点であるが、17世紀のころまで国上寺(旧分水町)とのつながりが強く、弥彦神社・国上寺の仏神事として舞童が行われていた。
しかし、18世紀に入ると弥彦神社の中から仏教的なものを排除する動きが強くなっていった。いわゆる神祇宗の影響である。それはたとえば元禄年間の弥彦関連文書の中に「舞童ノ祭リ 三月十八日大神楽ト云」「三月十八日舞童之神楽」などと記され、「大神楽」「大々神楽」という名称が多く使われるようになっていった。そして文政年間の史料である『桜井古水鏡』などで、「大神楽」「大々神楽」という名称についてのまとめや理論化がさらにすすめられていったものと考えられる。

講演会終了後、恒例の新年祝賀会が行われました。当会名誉会長の新潟市長篠田昭氏からご多忙の中ご出席いただき、激励のご挨拶をいただきました。